愉悦の選択、豊穣の虎視

◯独白

大義を成すために大小多くの苦難を乗り越える必要があることは至極当然の道理だ

 

例えば、テストで高得点高順位を獲得するために血の滲むような量の勉強をすること

 

例えば、大事な商談を成功させるためにアイデアを何度も推敲すること

 

例えば、恋人を作るために自分磨きとコミュニケーション能力の向上に全てを注ぐこと

 

そしてこれらは、前例やセオリーが多くある

 

なら、それらが僅かな場合は?

 

新しいものが世に受け入れられるためにはそれこそ、途方もない時間や苦労が必然となる

 

或いは、誰もが知り得ない術で逆に世を掌握する必要がある

 

僕ーー出水佑李もまた、その世界に足を踏み入れた人間の一人だ

 

◯夢の縁

 高校一年の年末、食卓を間に挟み僕と母さんが向かい合っているときのこと。母さんの顔は誰が見ても分かるほど不機嫌一色に染まっていた。

Vtuber?ダメに決まってるわ。そんな安定しない職業、上手くいかなくて野垂れ死ぬのがオチよ」

「でもーー」

「それ以上言わないで。それとも、私を怒らせたいの?」

 経験上、この人を怒らせると食事やその他僕に関わる様々なことをしてくれなくなる。

 何というか、所謂「普通」でいることを強いる人なのだ。

「分かった、じゃあ諦めるよ」

「そう。分かったならいいわ。もうすぐ夕飯だから志季のこと呼んできて」

 途端、まるで人が変わったかのように笑顔になる母さん。いつも通りの、人当たりのいい良妻賢母を具体化したような人格に戻る。したがってどれだけ世間様に訴えたところで無駄なんだ。

 感情を一旦セーブしながら2階に上がり、自室のドアノブを押し開ける。すると、

「浮かない顔だね。話、聞いてあげようか?」

 右側から高く凛とした声が聞こえた。そちらに視線を向けると一人の可愛らしい少女が腕を組んでこちらを見ていた。

 色素の薄い肌をベースに雪よりも澄んだ純白色の髪をおさげにした碧眼その少女は僕の妹である出水志季だ。

 現在中学三年生である志季は僕には勿体無いくらいのハイスペックさを持っている。

 まず、この子はとても頭が良い。去年、即ち中ニの時点ですでに県内の高校ならどこでも入れる程度の学力を有しており、生徒会長となるとその権能をフル活用して学校の環境をかなり変えた。

 次に、運動神経が良い。彼女が所属するバドミントン部では直近の中総体においてとんでもない功績を残し、その他どんなスポーツをやらせても人並み以上にこなして見せてくれる。

 そして、性格と容姿が本当に良い。日本人離れした見た目とその歳にしては少しだけ高い背丈は男女問わず目を惹き、時に他者を理解し時に冗談も言えるので世渡りがとても上手い。

 そんな三流恋愛小説よろしく天才美少年である志季だが一つ重大な欠点がある。

 志季はこれら全ての能力を僕に費やそうとする。つまるところ、僕の勘違いでなければこの子はとんでもないブラコンというわけだ。

 僕が興味を持って始めたことを一緒にやろうとしたがって、始めたら始めたで僕より上手くなってしまう。

 まあかく言う僕もそうやって真似したがる志季が可愛いと思っているのも確かだ。純粋さからの行為を易々と嫌ったりはしない。これらの行為に悪意はないだろうからね。

「少しだけ聞こえていたけど、やはり母さんは兄さんの夢を一蹴したらしいね」

「まあ分かっていたことさ。母さんなら絶対そうするってね。大方原因は父さんだろうけど」

 僕らの父は結構な放蕩息子で自分の感覚と興味に従順に行動するような人だ。

 僕が物心つくあたりに離婚しているが、特に母さんはかなりそれに振り回されたらしい。志季もその一つだ。

 聞いた話によれば離婚は父さんから「子どもを愛せる自信がない」と切り出したのがきっかけだそう。以来、父さんのように育てまいと暗に「普通」でいることを僕たちに強いてきた。

 それに反発して、というわけではないだろうが僕たちはかなり変わった性格になった。方や「普通」でない職に就きたがる。方やそれに従順になり真似ようとする。僕が言えた話でもないけど、母さんは相当な苦労人だと思う。育ててもらった恩義もあり僕も強く出ることが出来ない。

「と、そろそろご飯だって。行こう」

「……ねぇ、兄さん」

「ん?どうしたの?」

 いつになく難しい顔をする志季に違和感を抱き、僕は迷いなく問う。

「いや、やっぱり何でもないよ。行こうか」

 頭を振り、笑顔に戻る。きっと深く踏み入るべきでないと判断して、それ以上は追求しないことにした。

 

「ねえ母さん、二つほど提案があるんだ」

「志季からそんなことを言うなんて珍しいわね。どうしたの?」

「私の志望校って兄さんと一緒で家からそこそこ遠いだろう?だからこれを機に独り立ちしてみたいと思うんだ」

「……そう。志季ももうそういう年頃だものね。いいわ、できる限りやってみなさい」

「ありがとう、恩に着るよ。それとーー」

「ーーそれもそうね。本人がそれを飲むならいいわ」

 

   1

 

 年度を超えて、高二の四月。新調した布団の心地よさに包まれながら意識を夢の中に放棄していたときのこと。

「起きて兄さん、学校へ行くよ!」

 志季の元気な声が僕の鼓膜を揺さぶる。これだけなら気持ち良い目覚めなのだが、僕に跨って腹筋を心臓マッサージの容量で押してくるからかなり苦しい。

「……ああ、おはよう、志季」

 半ば強制的にそうさせられたが、意識を少しずつ覚醒させながら枕元のスマホを手に取る。ロックを解除して、表示された6:23の数字を見て絶句した。

「志季……早すぎ……」

 7:30に家を出れば十分朝のホームルームに間に合うところを、あまりにも早い時間に叩き起こされたものだからつい不満が漏れた。

「まったく、いつまで寝惚けているんだい?」

 中学の制服姿の志季を見ながら徐々に今の状況を思い出し、ベッドから降りる。

 話は母さんに夢を否定された一月まで遡る。

「志季と二人暮らし?」

「そうよ。卒業までの二年間、志季の面倒を見なさい。それが出来たら……夢を認めてあげても良いわ」

 あの話をした次の日の夜、徐にそんなことを言われた。

 駅から程近いアパートに志季と二人で住み、最低限の金銭的なサポートの下彼女の心身の健康と僕の一定の学習成績を保たせることが出来たならVtuberになることを認めるというもの。

 願ってもない話だが、流石に虫が良すぎる。おそらく志季の差し金だろうと考えたが、その場では特に言及せずにその提案を飲んだ。

 そして三月末から、登校時間が30分まで縮まったこのアパートで生活している。

 家を出る時間は遅くなった分、3食用意する必要がある。志季が態々起こしてくれたのはそういう意図あってのことだろう。

 まだあまり使われていないキッチンに立ちながら、昨日のうちに決めておいたメニューを作るべく冷蔵庫を開ける。

 そこでふと、ある疑問が頭をよぎる。

「志季、確かに入学式は今日だけど、始まるのは午後からだ。起きるの少し早くない?」

 今日の時程はニ、三年生が午前中実力テストを受けて、午後に新一年生が入学式を実施するという運びになっている。だからこの時間に志季が既に準備をしているのには少々違和感がある。

「?兄さんを起こすためだけど」

 隣に立つ志季はさも当然のように、あまりにもあっけらかんと答える。根っからの兄想いな妹に改めて感動を覚えた。空いていた左手で志季の頭を撫でると、嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

   2

 

 テスト後、進級とともに新しく出来た友達と雑談に興じていたときのこと。

「なんか新しい一年にさ、すげぇ髪白い子いなかった?」

「いたわ。あの可愛い子でしょ?俺狙おうかな」

 コンビニ帰りであろう別のグループの方から新入生に関する話題が飛んできた。十中八九その渦中の人は志季で間違いないだろう。

 そう思案を巡らせていると、

「……あ」

 一件のメッセージが送られてきた。送り主は母さんだ。

『写真撮るから下来てくれる?』

 荷物を取り、友達に別れを告げてそそくさと階下に降りる。

 僕らが通うこの神羅第一高等学校ーー通称一高は、上位の公立高校の方が私立高校より学習成績が高いと言う特徴があるこの県の中で二番目の偏差値を誇り、尚且つ県内最初に創立された高校で100年以上の歴史がある。更に、学習面と文化面の両立を生徒が主体的にやるので、特に文化祭なんかはこの学校の魅力だったりする。余談だが僕みたいな例外もいる。

 入学時のフォトスポットとして一般的に思い描くのは校門の前だと思う。これが一高の場合初代校舎(現在の校舎は五代目)の校門が敷地内にあり、ここで撮れと言わんばかりに入学式の看板が立て掛けてある。

 僕がそこに到着した頃には母さんと志季は前から五番目に並んでいた。

「お待たせ。私服だけどよかったの?」

「良いんじゃないかしら、先輩っぽくて」

 因みに一高には、かつてはあったらしいが今では制服がない。私服登校が可能なのだ。ついでに言うと染髪や化粧も禁止されていない。高校デビューにはうってつけとも言えるため入試の倍率は、少なくとも県内では最高となっている。

 後ろの人に撮影をお願いして二、三枚ほど撮った後、知り合いを見つけたらしい母さんは僕に志季を任せてそちらに行ってしまった。

「改めて入学おめでとう。間違いなく志季はこの先苦労するだろうから、何か困ったことがあったらいつでも言ってね」

「ふふ、ご忠告痛み入るよ。そうだなぁ……じゃあ、毎休み時間に話し相手とボディガードとして私のクラスまで来て欲しいな」

「丁重にお断りさせてもらうよ」

「即答!?何でもするって言ったじゃないか!」

「いや、何か困ったことがあったらと言ったんだけど」

 縦んばそう言ったとして、その依頼は流石に受け難い。

「入学式のスピーチは志季が担当だったね。是非とも妹の晴れ舞台を生で見たいところだけど、何せこの格好だ。録画で我慢するとするよ」

「全く、照れくさいなあ。この入試一位様のスピーチは録画でも完璧なのさ。とくとご覧あれよ」

「冗談のつもりだろうけどくれぐれももうちょい謙虚であってね?」

 尤も、入試の得点が一位だったことは事実で僕もその凄さは重々理解しているので苦笑しかなかった。

 どこの学校でも同じだろうが、高校の入学式の生徒代表スピーチはその年の入試で最も高成績を修めた人が執り行う。因みに志季は500点中489点と、二位と20点以上差をつけてその才覚をいかんなく発揮している。

「そろそろ時間だ、私はこれで失礼するよ」

「分かった。夜食べたいものとかあったら教えて。出来る限り準備するから」

「だったら、久々にあのインドカリーの店に行きたいな!」

「ちゃんとリーって言う人初めて見たかも」

 手を振りながら校舎の方へ歩いていく志季を確認して、僕は一足先に帰宅すべく駅へと歩を進めた。

 

   3

 

「やぁ、久しぶりだな」

「っ!あなたねぇ、どの面下げてここに来たわけ!?」

「子ども達は?まだ学校か?」

「あなたにあの子達に会う資格なんてないわ!今すぐ帰って!!」

「権利くらいあるさ。君は気に入らないだろうが、これでもーー父親なんだからね」

 

◯綱渡りな二人暮らし

 本格的に授業やら部活やらが始まってからというもの生活が少しずつ忙しくなってきた。しかし面白いもので、色々と家事をこなしているうちにどうしたら効率的にできるかを考え実行することで自分の時間を確保することが出来るようになった。

 部活といえば、今日は一年生と上級生が対面する部総会というイベントがあった。まあ役職もなにもない僕がすることなど自己紹介に限るのだが。

 などと漠然と何でもない考えを錯綜させながら僕と志季は一緒に電車に乗り込む。

 東京ほどの大都会でないにしろ、二駅目くらいでほぼ満員電車さながらになる。したがって、志季と逸れないよう左手で吊り革を持ちつつ、右手は志季の腰に回している。

 これが仮に僕らでない一般の兄妹だったら殴られてもおかしくない。僕らがある意味特別なだけだ。

 余談だが、僕らの学校は私服のみならず鞄等においても当然表立った規制はない。僕らは二人ともトートバッグで登校している。

「ふふ、こうしていると何だか恋人みたいだね」

「じゃあ恋人ができたらそのときはこれ以上のことをすることにしよう」

「なっ!?ダメだダメだ!私より恋人なんかを優遇するなんて!」

「君は恋人を何だと思っているんだい?」

 などと小声で会話していると、

「ーーっ!?」

 一瞬驚くリアクションと共にピクリと志季が体を震わす。次第に顔色が少しずつ悪くなっていく。志季の視線が背中の方を向いていたので肩の上から覗いてみると、一本の腕が志季のスカートへと伸びていた。

 なるほど、痴漢だ。

 ポンポン、と軽く志季の背中を叩き手を離す意思を伝えて僕は正体不明の腕の先、即ち手に素早く自分の手を回しーー

 パキィッ!!

薬指を手の甲の方に折り曲げた。

「いっ……!?」

 最小限に抑えられた男のものと思われる苦悶の声と骨折の鈍音がが正面のサラリーマンの奥から聞こえるが、肝心のその姿が捉えられなかった。なかなか我慢強いな。

 やがて目的の駅に到着し、人混みに紛れながら下車すると志季やや慌てた様子で僕の方を見る。

「兄さん、一体何をしたんだい?」

「ん?ああ、指が曲がる方向を拡張してあげただけだよ」

「ちょ……流石にやり過ぎなんじゃないかな。指紋やらでバレないかい?」

 当然の疑問を掲げる志季に僕は指を折った右手を見せる。

「ゴム手袋?」

「そう。万が一にも僕がやっていたと言われないように、僕の指紋は一切残らないよう最低限の工夫は凝らしているんだ。それは何もさっきの傷害に限らず、志季の服の繊維やらが残っていても二重の意味で僕が罪に問われてしまう可能性にも言える」

 納得したように頷く志季だが、それでも少なからず意見があったらしい。悲しそうな顔で口を開く。

「でも、兄さんが犯罪者になってしまうのは流石に耐え難いよ。私も気をつけるから、もっと自分を大事にしてくれ……」

 いつもの様な語気が感じられない。まあ無理もないか。

「あのね、志季。こんな時に言うのも少し違う話かも知れないけど、君が僕の妹である以上命を賭してでも君を守りたいと思うんだ。我儘に聞こえるだろうけど、それだけは理解してほしいんだ」

「兄さん……」

 嬉しいような悔しいような、そんな複雑な表情に染まっていた。

 

   1

 

 放課後ーー学部毎に所定の場所に集合し、僕たちバドミントン部は最上階の大会議室の前に集って、部長が鍵を持って来るのを待っている。

 実のところ僕は幼稚園時代から中学三年まで水泳をしていて、県内大会で本線に残る程度には実力があったのだが、志季が楽しそうにバドミントンをしているのを見て興味を持ち、高校で水泳を辞めた。

 お陰様で今は部内で最下位争いをしている。愉しければ問題ない。

 大会議室の前の廊下で待機している部員の視線の多くは僕ーーの左隣にいる志季に注がれている。名実が知れ渡っている上に容姿も良いのだから仕方ない。

 そんな本人は新しく出来たであろう一年女子と思しき子と談笑に興じていた。順調そうで何よりだ。

「佑くん、こんな可愛い妹ちゃんいるって言ったっけ?」

 反対側、右隣にいる女子の先輩が僕にそう声を掛ける。

 この人は現女子バドミントン部の圧倒的エースである河井飛鳥先輩。本人のストイックさ故に男女問わず多くの人は彼女のことを怖がったり暗に避けようとするが、僕は違う。去年ひょんなことがきっかけで彼女と会話したときに、この人の面白さに気づけたからだ。したがって、同期の男子で彼女とラフに話せるのは実質僕だけと言っても過言ではない。と思う。

「多分言ったことないですね。バド関係者ならもしかしたら知ってるかもくらいには思ってましたけど。飛鳥先輩は知ってましたか?僕らが兄妹だってこと」

「そりゃ、今になって苗字同じだったなあとは思ったけどさ。逆じゃん、普通」

 言わんとすることは分からんでもない。確かに一般的によく見るのは兄姉が名を馳せて、その弟妹が少し有名になるパターンが多い。逆に、弟妹が有名になって兄姉が、というのはあまり見かけない。寧ろその陰に埋もれてしまう方が世の常だと思う。

「逆ですね、確かに」

 でしょー!?とどこか嬉しそうにリアクションする飛鳥先輩。

 一旦それはさて置いて新入部員、特に男子の方に意識を向ける。

 緊張しているのかどこか落ち着かない生徒、胸の前で腕を組んで志季同様雑談をする生徒、手持ち無沙汰になりスマホを取り出したりしまったりする生徒。ここだけ切り取っても銘々がどんな性格なのかある程度推し量ることが出来る。

 しかし、選手事情に詳しくない僕は誰がどんな強さだとかは分からない。その辺りは後で同期にでも聞こう。

 やがて大会議室での部総会が始まり、上級生自己紹介を済ます。そして一年生の番となり、ある一人の男子生徒が目に留まった。

 その彼は両手を背中の後ろで繋ぎ、自信に満ちた声ではっきりと言う。

「白英中出身の五十嵐透です。中学時代は最後の県中総体の団体戦で準優勝しました」

 明らかに空気が変わった。どよめきが広まり仄かな興奮が漂うのを感じる。

 水泳と違い、バドミントンでそれほど上位に行くのは本当に難しい。準優勝と言えど実績としては十分すぎる。

 それでもーー

「凌秀中出身の出水志季です。最後の中総体のダブルスで優勝しました。よろしくお願いします」

 うちの妹には敵わないだろう。放たれた一言に先ほどの男子生徒ーー透も言葉を失っていた。透の自己紹介以上の歓声にこの場の空気は席捲された。

 自分のことではないものの、平然としている志季のことを本当に誇らしく感じた。

 

   2

 

 その日の放課後、家から最寄駅を挟んで反対側にあるスポーツセンターに寄り二人で帰宅していた。

「入部祝いにこんな良いラケット買ってくれるなんて兄さんってば、とことん妹に優しいねぇ」

「どちらかというと誕生日と入学祝いを兼ねてのものだけどね」

 新品のラケットを大事そうに両手で抱える志季はとても愛らしい満面の笑みを浮かべている。

 普段は母さんにさえ策略的で底が知れないような振る舞いをし本心を悟られないように配慮している志季が、僕に対しては素直な反応を寄越してくれるからかなり扱いやすかったりする。

 二つ目の駅ビルの間を通り抜けようかといったとき、一時の方向に早足で歩く厳しい表情をした中年の女性がいた。

 それだけなら何のことはないただの日常なのだが、その左手に持った近所のカフェの物と思しき透明な容器をーー茂みの方に放り投げたのだ。

「ーーえ?」

 突然の悪意に呆気に取られていると、数秒前まで隣にいた志季がバッグとラケットを僕の隣に残して投げられた容器の方向へ駆け出した。

 間もなく追いつくと、その容器をサッカーのトラップの容量で的確に女性の方へ蹴り返す。3分の1ほど中身の残っていたそれは宙を舞ううちに蓋が開き、そのほとんどが女性の服に降りかかった。女性は反射的に避けようとして防御の姿勢を取ったが、バランスを崩して右手に持っていたトートバッグから免許証やら財布やらを散乱させた。

「ーーっ!?な……何すんのよ!」

 想定内というべきか、女性は逆上し四季のことを責め立てた。しかし、志季は至って冷静でいた。

「何って、私はただあなたが落としたものを落とした本人の元に返してあげただけさ。ああ、それとも……不法投棄なんてしようとしてないだろうね?」

 痛いところを突かれ、女性の顔は憤怒一色に染め上がる。

「不法投棄なんてしてないわ!証拠なんてないでしょ!?それよりどうしてくれるのよ!服が汚れてしまったじゃない!弁償しなさい弁償!」

 大方大声で捲し立てれば何とかなると勘違いしていらっしゃるのだろう。自分の非は棚に上げて被害を訴える、如何にも愚かしいやり口だ。

「それを言ったら、私があなたの服を汚した証拠もないね。幸いというべきか、偶然にも人はいなかったし監視カメラもない。そして靴で特定することも不可能だ。足跡が付いたわけでもないからね。さて、何でこんなことをしたのか……説明してくれるかな?」

 顔色こそ伺えないが、恐らく志季は笑顔のままだ。そのまま落ちた容器を拾い、女性の眼前に突き出すものだから逆に凄みがあり、女性も半ば怯えている様子だった。

 涙声になりながらぽつぽつと女性は語り出す。

「し、仕方ないじゃない……夫は最低限のことしか会話してくれないし、息子は反抗期真っ盛りで……私の言うことなんか聞いてくれない。……可哀想でしょ?だったら、こんなことくらいしてもいいじゃない」

「言っていることが支離滅裂だよ。大体ーー」

 正論パンチをかまそうとする志季を、志季の荷物を持っていない右手で制して今度は僕が口を挟む。

「僕が思うに、そういう細かいところの失念のせいで二人にそんな態度を取られるんじゃないかな?人のことをさておいて自分の感情だけを通そうとするなんて自己中もいいとこだ。人を変えたいなら、まず自分を省みるべきだよ。それをしないなら、あなたは一生孤独なままになる」

 僕なりの優しさを述べると女性は力無くその場にへたり込み、気が抜けたように呆然としている。それは無視して志季を連れて家の方に向かう。

 何とも言えない沈黙が流れる道中、僕は苦笑を志季に向けて言う。

「ごめんね、美味しい所奪っちゃって」

 一瞬ぽかんとした志季だが、僕のその反応が可笑しかったのかくすくすと笑い、自嘲気味に言う。

「私の方こそありがとう。あのまま続けていたら収拾がつかなくなるところだったよ。兄さんが止めてくれなかったらどうなっていたことか」

「胸糞悪い思いをするよりかは全然いいと思うよ。こちらこそ、切り出してくれてありがとう」

 過度に責めることをせず、双方自ら反省して尊重し合う。本当に良好な関係だ。

 自分で言うのもおかしな話だが、他に兄妹を持っている人達から見ても一様に羨ましいと思う筈だ。それも一重に四季のおかげだと常々考えている。

「今晩は何食べたい?」

「時間もそんなに無いし簡単なもので大丈夫だよ。ドネルケバブとか」

「任せて。明日になろうと完成させるから」

「ちょ、ごめんって。私が悪かったから」

 

   3

 

「ーー確かに俺はお前たちに迷惑をかけた。簡単に許される事でもないのは百も承知だ。けど、あの子たちももう十分大人だ。知る権利がある。違うか?」

「私から言えば済む話でしょ?あなたが言う必要はないわ」

「果たしてそれで納得できるか?特に志季。俺が言えた義理でもないが、あの子は複雑すぎる事情を抱えている。詳細をはっきりと知らない君が言って何とかなる話でもないんだ」

「だったら、その事情とやらを教えて。それで私が納得できたら、もう何も言わないわ」

「……初まりは佑李が生まれる前になる。あれはーー」

 

◯安寧という名の絵空事

 志季との共同生活が始まっておよそ三ヶ月、ある金曜日の部活にて。

 三年生が引退して、残った二年生と一年生で改めて序列をはっきりさせようということで、シングルスを様々な組み合わせで行っていた。

 そんな中、そのメニューの割と序盤で僕は暫定四番手である戸崎京介と当たっていた。

 二セット目、既に僕が一ゲーム取られている中、12-8とかなり追い詰められていた。

 京介のスタイルはクロススマッシュをベースとしたテクニック型。対して僕は、少し恵まれた四肢の長さと関節の柔軟さを活かした強襲型。

 僕のスタイルはある意味でテクニック型に強いが何分高校始めなもので、経験が全く足りてない。したがって経験の上に成り立っている透のような相手には明確に弱点がバレてしまう。

 そんなわけで僕はその後あっさりと三点取られて負けてしまった。尤も、そもそも勝てる相手だと思っていなかったので悔しさはあまり感じない。

 バッグからすっかり温くなった天然水の入ったペットボトルを取り出し、勢いよく呷る。身体から抜けていた水分が一気に戻ってきて、より一層美味しく感じる。

 飲むという行為の素晴らしさに感動していると、同期のエースに声を掛けられる。

「おつ。なんか佑李最近急に強くなってね?」

「そうかな?負け続きだからあんま分からないかも」

 透の話題で埋もれがちだが、彼ーー烏丸迅も中学最後の総体において個人戦ダブルスでベスト8に残っており、直近の高総体でも先輩のエースの人とダブルスを組んでベスト32という好成績を記録した(私立高校は練習量が桁違いのためこれでも十分すごい)。うちの中学の同期の男子も確か同じランクだったが、どちらも異次元に上手い。

 実際、迅と二番手には大きな差がある。透はこの間に食い込もうとしているのだから、歴とした実力者であるのは否定できない。

 因みに、迅は部長ではない。

「何セットか別で強い人に負けてから1セット先取っていうルールなら勝てると思う。多分」

「うわ、それは舐めてるわ。透結構強いぞ?俺は普通に勝ったけど」

 一高のバドミントン部は体育館前半分に設けられた4コートを男子と女子で2つずつ使っている。

 男子は今二年生が10人、一年生が5人おり、方や女子は二年生11人、一年生6人となかなかにバランスが良い。

 僕と京介の試合が終わり、空いたコートには既に別のメンバーが入っている。その隣の男子コートでは二年生同士の熱戦が繰り広げられていた。

「ちょっとした疑念があったんだよね」

「ギネン?」

 迅が疑問調でおうむ返しするが、根っからの数学徒である迅のことだ。疑念の内容じゃなく、その単語自体に対するものだろう。話せば分かるだろうから、一旦無視する。

「大したことではないけど、透は何で態々団体戦の結果の方を話したのかな、って。例えばの話、補欠メンバーとしての出場だったからああ言う言い回しをしたのなら腹落ちする」

 バドミントンの団体戦はダブルスが二試合、シングルスが最大三試合行い、三本先取したら勝利となる。したがって、最低五人いれば団体戦は成立する。

 しかし競技シーンを見れば分かる通り、コート端に並んでいるのは補欠五名を含んだ十名で行うのが基本。そのシステムは中学も高校も変わらない。

「仮に補欠じゃないとしたら、それを言うんじゃないかと思ったんだ。それから、調べてはいないけど個人戦の戦績ってどんな感じなんだろうね」

「こないだ調べたな、それ。白英中の奴らが居たのは覚えてるけど透の名前は確か見なかった」

「やっぱりか。だとしたら迅があんなあっさり勝ったのも納得できる」

「何だ?煽ってんのか?」

 何も迅が弱いと言っているわけじゃないのだが、確かに誤解を生む言い回しだった。改良の余地があるな。

「……てか、お前の妹強すぎね?勝てる自信ねぇぞ」

 迅に言われて女子のコートの方を見ると、丁度志季が二年生女子の三番手である小野寺美玖をぼっとぼこに、厳密に言うと志季が1セット取った後の2セット目で、14-3と志季が圧倒している中鋭いスマッシュで最後の一点を決めているシーンが目に飛び込んで来た。

 素人目に見ても、確かに迅でも志季には勝てないと思う。

 

   1

 

「ふっふっふ、快勝だったね」

「また言ってるよ……」

 あの後志季は更に二番手、一番手の女子、更に迅とマッチングし、唯一迅には1セット取られてしまったものの見事に全勝を納めた。で、それを夕食後となる今も何度も呟いては余韻に浸っている。

 因みに勝利を掻っ攫われた迅は最後の方は諦観混じりの笑顔を浮かべていた。

「提案なんだけどさ」

 そんなご機嫌な志季に僕は少し前からやってみたかったことを実行すべく、志季を誘ってみることにした。

「なんだい?兄さん」

「もし疲れてなかったら、明日近所の体育館にまた一緒に打ちに行かない?」

 それに対し志季は即座に表情をパァッと明るくして、

「行く!行くとも!」

 元気よくそう答えた。既に何度目かの些細な誘いだがあまりの無邪気さで昇天しそうになるのを堪えて、なんとか理性を保つ。

「ありがとう。実は試してみたいことが……志季?どこいくの?」

 玄関ポーチでラケットとバッグを持ってスニーカーを履こうとする志季を呼び止める。一方で志季は、

「ん?打ちに行くんだろう?」

 当然でしょ?と言わんばかりの反応をする。

「いや、志季。はやる気持ちも理解出来るけど、流石にこの時間からは開いてないし縦んばすぐ閉まってしまうよ。明日行こうね」

 どうしてこの子はこうも抜けているところがあるんだろう。そりゃ、確かに完璧すぎるよりは幾分かマシではあるが。

 その後興奮が冷めやらなかった志季が僕と寝たいというので、おそらく小学生の時以来久しぶりに同じベッドで一夜を明かした。流石に「じゃあ同衾させてくれ!」のセリフはあまりにもインパクトが強かった。

 次の日、土曜日の朝一番に僕らは近所の市民体育館の一コートを借りて練習を開始した。ただ普通にシングルスの試合をしたり、志季にお願いして特定の動きの練習もさせてもらった。

 一時間ほど続けて、一旦休憩を挟む。

「ふーっ、疲れたなぁ……志季はまだまだ元気そうだね」

「経験値の差も少なからずあるだろうさ。やっている中で疲れにくく且つ対応しやすい動き方の感覚がきっと身についてくるよ。ほら、兄さんって少しゴリ押しに走ること多いだろう?」

 的確なアドバイスをしながら志季が両手で僕の右手のツボを程よい力で押してくれる。何も頼んだわけではないが、好意を無碍にするのも申し訳ないし、二重の意味で気持ち良いので素直な感謝を述べておく。

 予想通りと言うべきか、周囲から視線を感じる気がするが、それはそうとまだ体力が回復しなさそうなので志季との会話に徹した。

「学校はどう?楽しい?」

「それはもう!中学の頃までと大違いだよ!クラスの面々も賢い人が多いし、先生もやる気のある人ばかりだ。何より染髪の制約がほぼないのも良い。お陰でこの髪色が自然に受け入れてもらえたからね」

 生まれつき白い髪は時に簡単に受け入れて貰えないこともあった。その度に志季や僕たち家族は地毛であることを伝えて来た。

 一番酷かったのは中学に上がったばかりのころ。生徒指導により志季が呼び出しをくらい、黒く染めろというもの。染髪自体が校則違反であることを突いたが、生徒指導の教師は頑として聞き入れなかった。

 そこで志季は幼少期からの写真、行きつけの美容師、更には教育委員会をも交えて再度訴えて、その頭の硬い教師は言い訳をしたものの最終的に別の学校に飛ばされて、志季の白髪は認められた。

 今となってはその必要もなく、穏やかな日常を送れているそうだ。

「流石、一高と言うだけあるよ。これまで見た中で一番の学校だ」

「はは、気に入ってもらえたようで何よりだよ。困っていることもない感じなのかな」

「そうだなぁ……困っていると言うほどでもないんだけど、透が最近よく私に突っかかってくるな」

「透が?」

 一高には固定で各学年8クラスある中、透と志季は同じ一年六組の生徒なのだそう。

「うん。ことあるごとに私に妬み嫉みの言葉をかけたりしてくるんだ。テストで私が高得点を記録したのに対してカンニングをしただとか、シングルスで先輩たちを負かしたのは手加減してくれたからだとか。根拠もない些末なことばかりだから正直言って全く気にしてないけどね」

「嫉妬……確かにあり得なくはないか」

 バドに関しても学力に関しても間違いなく志季が圧倒しているから、その考察はかなり的を得ているかも知れない。

 不意にマッサージの手が止まり、くつくつと志季が笑いだす。

「ふふ……男の子は好きな娘にイタズラする習性があるとはよく言うけど、まさか透が……私のことを……ははは!」

「うーん。自分で言って自分で笑うのはどうかと思うけど、面白い推察だね」

 そうして十数分ほど他愛もない話を楽しんだのち、また体を動かせるくらいに体力が回復した。

「そろそろまた遊ぼうか。水分補給は大丈夫?」

「あー、そういえば持ってくるのを忘れていたよ。兄さんのを貰ってもいいかな?」

 外面はしっかり者の志季らしくないミスだ。ただ、こと今日に関しては然程問題ではない。

「そんなこともあろうかと、今日は多めに持ってきてるんだ」

 リュックから2L入りのスポーツ飲料のボトルを取り出して志季に手渡す。「ありがとう」のひと言と共に志季は両手で受け取ると、慣れた手つきでキャップを開いて唇を飲み口に付けて喉を潤した。

 脱水症状の恐ろしさを知っている僕は乾いている感覚こそなかったが、志季が飲み終わった後にボトルを受け取って同様に飲んだ。気づかなかった体の渇きがスポーツ飲料の甘味と僅かな塩味を際立たせていつもより少し美味しく感じる。

「さあ、再開しよう」

「……え、ああ、そうだね」

 ボトルを僕に返した後からこちらをまじまじと見ていた志季が歯切れ悪く応える。

 この後数時間に渡りプレーを続けて、二本目の2Lボトルが空になるのを皮切りに僕らは帰宅した。

 

   2

 

 同じ日の夜。残り数分で日を跨ごうかといったころ、僕は自室のデスクトップが置かれた机を前にしてキャスター付きの椅子に座っていた。

 先天的な夜型の僕はこの時間帯が最も集中出来る。だから次の日が完全な休日だとなったらこうして夜を更かして作業に没頭するのが週末の主な日課となっている。

 デスクトップのモニターにはそれぞれ大きさの違う音波の帯が縦にいくつも並んでいる。今行っているのは所謂MIX作業というもの。

 動画投稿における人気コンテンツの一つとして、有名、人気曲をカバーして投稿するというものがある。MIX作業では歌い手が歌った音源をカラオケ音源に合わせたり、或いは機械でしか出来ないような表現や効果を追加してより聞き手が楽しめるようなものにする役割がある。

 MIX師というMIXの専門の人に委託してこれを代替してもらうこともできるが、僕のように資金がそう豊富でない人や自分にしか理解できない拘りのある人はこの作業を基本的に自らの手で行う。

 そうでなくとも、MIXが出来るということ自体が一つのアピールポイントになり得る。だから学業の傍ら、定期的にこうして完成させたものを志季や造詣の深い友人に送って奇譚なき意見を求めている。

「やっぱり高音行くほど表現の幅狭くなるな。かと言って音変えるとしっくり来ない」

 一人になると独り言が激しくなるという性分は昔から何一つ変わっていない。

「お困りのようだね。私のコーラスでも入れてみるかい?」

 いつの間にか室内にいた志季がにゅっ、と僕の右後ろから顔を出す。

 風呂上がりの寝巻き姿に、背中を覆いそうなほど長い絹のような髪はいつものようにおさげではなく完全に下ろしている。家族しか見ることのない中々レアな光景だが、僕は見慣れているので特に何も感じない。

「興味深い提案だけど、丁重にお断りさせてもらうよ」

「ふふ、兄さんならそう言うと思ったよ。けど、MIXだけなら私に任せてもらってもよかったのに。あ、何なら私が兄さんのマネージャーにーー」

「志季」

 気分が乗ってきたところ申し訳ないが、僕は常々思っていることを志季に伝えようと、伝えるべきだと思った。

「……何かな?兄さん」

「ちょっとそっちに座って」

 そっち、と言いつつ僕はベッドの方を指差す。

 言葉を止められるとは思いもしなかったであろう志季が微かに動揺しているのが見て取れるが、平常を装いながら志季はベッドにそっと腰を下ろす。

 僕もそれに倣って先の隣に移った。

「まず第一に、これは僕が楽しいと思ってやっていることである以上、疲労感や壁は少なからず存在するけどそれ自体は全く苦ではないんだ。仮にここで志季に任せてしまえばら僕は望んだ成長という楽しみを失うことになる。これは分かってくれるかな?」

「それはそうだね……申し訳ない、浅はかだったよ」

 明らかにしょんぼりと肩を落としているが、残念ながら苦しいのは寧ろここからだろう。

「第二に、僕は志季にもっと自分の為に時間を使って欲しいんだ。君のその豊富な才は僕のためだけに使うにはあまりに勿体無い。もっと色々な人に触れ合って、もっと色々なことを知る。そうして、本当の意味での『生き甲斐』を見つけるんだ」

 生き甲斐と言う単語に志季が激しく反応する。

「私の生き甲斐なんて決まっているさ!それは」

「僕に一生涯尽くし続けること。そうでしょ?十数年の付き合いだ。態々言葉に出さなくとも分かることもあるさ」

「分かっているなら……どうして……!?」

 半ば興奮気味でいる志季に、僕は冷酷な判断を下す。

「それは、本当の意味で志季のためにならないからだ」

「ーーっ!」

 志季は息を詰まらせて、言葉を失う。そんな彼女の頬に右手で触れた。

「……たとえ家族であっても、触れられたくない秘密の一つや二つくらい少なからずある。志季がそうまでして僕に執着するのにも、もしかしたら理由があるのかも知れない。無理に知ろうとはしないしそれが何なのか正確には分からないけど、知らないまま施しを受けるわけにはいかないんだ」

 今でこそ一緒に暮らしているから良いものの、いずれ離れ離れになることは避けられない未来。そうなったとき志季が兄離れ出来ていないとお互いのためにも良くない。

 幸い、志季は頭が良い。僕の言うことも理解はしているだろうし、その上で込み上がる感情を強い理性で押さえつけることも出来る筈だ。

 事実その証左に、触れていた右手がやや濡れているのを感じた。

「……兄さんは、もう私が必要ないと……そう言うのか……。じゃあ私は……何のために……」

 弱々しく紡がれた言葉の内容はきっと現実を受け止めきれないものから来た、そう認めないと壊れてしまうという無意識の防衛本能からのものだろう。

 今どんな言葉を掛けようとも逆効果だと判断して無言でいることに徹していると、志季が僕の手をそっと下ろしながら立ち上がり、ドアの方までフラフラと歩いていく。

 ドアノブに手を掛けて数センチ押し開けると、振り返らないまま僕に想いを吐露する。

「……ごめん、兄さん。けど、今日ばかりは兄さんの顔を見れそうにないんだ。……もしそれをしてしまえば……今度こそ泣くのをやめられなくなってしまうから……。おやすみ」

 最後の方は少しだけ涙声になっていた。

「うん、おやすみ」

 僕ができるのは、ただいつも通りに接することだけ。これからどうするかはあの子次第だ。

 とはいえ、

「……はぁ」

 あまりにも無情が過ぎるだろうか。メンタルを消耗したのは僕も同じことだ。尤も、その度合いは一目瞭然ではある。

 デスクトップの稼働音だけが部屋を虚しく包み込む中、とても作業を継続する気にはなれなかったので、電源を落としてベッドに体重を預けた。

 午前の激しい運動で疲れている筈なのに全く寝付けなかった。

 

   3

 

 週末休みが明けて二日目、火曜日の授業が終わり部活の時間まで残り20分ほどの頃のこと。

 あの夜の翌日の朝以降も志季はこれまでと同じように挨拶をし、これまでと同じように過ごしていた。唯一違ったのは、起きて最初に会った時に目の周りが腫れていたこと。

 きっと泣き疲れたせいだろう。朝型の志季が夜型の僕とほぼ同じ時間に起きたことを暗示していた。

 そういえばそろそろ夏休みだ。久々に実家の母さんに顔を出すのも悪くない。または地元の祭りに行くのも良いだろう。久々に浴衣姿の志季を見るのも楽しいかも知れない。

 などと思案を巡らせていると、バド部のグループチャットに一件のメッセージが送られた。

 送り主は透で、

『週番の仕事で遅れます』

 とのこと。

 一高では出席番号順に二人ずつ一週間毎に授業前後の号令やその他雑務を全うする担当が割り振られている。放課後に担任に日誌を提出する必要があるため、週番になると16時に始まる部活には大抵間に合わない。

 透もその意思を述べたのだと、文面だけ見ればそう取れる。文面だけ見れば、ね。

「……ダウト」

 僕がそう呟くと今度は個人チャットで連絡が飛び込む。

 送り主は志季だった。

『p』

 不可解だったが、少し思考を巡らせてある結論に辿り着いた。

 先ほどのグループチャットに

『掃除で遅れる』

 と虚偽の報告をして、急足で階下に駆け降りた。

 一高の一階南側には理科棟があり、生物、地学、物理、化学の実験室、準備室、講義室がそれぞれある。

 準備室は各教員の常駐室だが、このうち物理室と化学室だけは大体16時前に全員退勤していることが多い。

 したがってこのpは物理の"physics"を意味していると考えられる。

 理科棟に到着して物理室近くまで進むと想定通り二つの声が聞こえてきた。

 方や高く澄んだ少女の声、方や声変わりしきっていない少年の声。志季と、そして透で間違いないだろう。

 そもそもなぜ理科棟なのか。ここまでの情報から推察するに、透は人目に付かない所で志季と密談をしたかったのだろう。週番があるとまで嘘を

ついて。

 人クラスおよそ40人いるので、週番の周期が一周してまた最初の人に戻ってくるのは大体夏休み後となる。姓が五十嵐である透は恐らく四月ごろに既に当番を終えている。あの報告が嘘だと分かったのにはそういった理由がある。

 志季がわざわざSOS、というか暗号めいた形で場所の報告をしたのには何かしら懸念があったからだと思われる。とはいえ、勘違いで首を突っ込もうものなら透に優勢に立たせてしまうことに他ならない。

 部屋の中に入らずに僕は一旦二人のやりとりをなるべくバレないよう静観することにした。

「ーーだから、君とは付き合わないと言っているんだ。というか、断られないとでも思ったのかい?往生際が悪いよ」

「でもお前彼氏いないんだろ?何で付き合ってくれないんだよ」

「単純な話、私には既に大事な人がいるんだ。君なんかよりずっと格好良くて強い人だ。私がどれだけ曲がろうともいつも親身で接してくれて、そうやって君のように自分の価値観を人に強要したりしない。私と付き合いたいのなら、まず自分磨きからお勧めするよ」

「チッ……調子乗んなよ!」

 ドンッと鈍く低い音が小さく反響する。

「っ……!」

「こっちがその気になりゃお前一人どうにでもできんだよ。その大事な人とやらもどうせ大したことねぇよ」

「……それ以上兄さんを馬鹿にしたら」

「そこまで」

 今止めなかったら危なかった。透が。

「兄さん……!」

「佑李先輩!?何でここに!?」

「理由なんて何でも良いさ。それよりその手、離してあげて」

 見れば、透の両手が志季の双肩を壁に押し付けている。そしてその右手の薬指には包帯が巻かれていた。

 志季への攻めと僕の突然の介入で冷静でいられなかった透が志季からパッと手を離す。そそくさと僕の胸に駆け寄る志季の背中を右手で軽く包んで、透の方に目を向ける。

「さて、どう言うことか説明……はしなくていいか。一部始終を見ていて何を話したか、どちらに非があるのか、それらは十分に理解したからね」

「す、すいませんでした!」

 悪意が露呈した焦りで透は勢いよく深々と頭を下げる。僕の腕の中にいる志季は透のことを横目で冷酷に見据えている。

「保身のための謝罪なら求めてないし、そもそも謝る相手が違うよね?」

 僕の身長は176cmで透より8cmも大きい。そのため、その気が無くても自然と威圧感が生じて、透は必要以上に萎縮しているように見える。

 何も言い出せない透をよそに、僕は話を続ける。

「正直な話、うちの部長は社交性がある分人に物を言うのがあまり得意ではない。不幸なことにうちの男子達はかなり我欲が強い。だから、僕みたいに目立たない存在が秩序を正す必要があるんだ。分かるだろ?君みたいな異分子は早急に排除しなければいけないんだ」

「そ、それは……」

「けどね、僕とてそこまで鬼ではないんだ。だから、一つチャンスをあげるよ」

 そう言って僕は志季の方を一瞥する。

「丁度今男子も女子も序列決めのため試合をやる時期だ。そこで試合をして君が負けたら責任を取って……退部、というのはどうだろう。中々悪い提案じゃないと思うんだけど」

 退部という言葉に反応し、透の顔がみるみる青ざめていく。

「そのかわり、君が勝ったらこの件を不問にするし、君にとって有益になり得る情報を享受してあげるよ」

 微かに希望を見出した透に志季が釘を刺す。

「勘違いしているようだから教えてあげるけど、これはあくまで裁定だ。君に有利に働くと思うなよ?」

「……っ。まさか志季と戦うっていうのか?そうなの、勝てる筈が……」

 今度は表情が絶望一色に塗り替えられた。期待させられたら一気に落とされたり、今日の透はは心中穏やかじゃないだろうね。それから、

「勘違い二つ目。君の相手は志季ではない」

「え……なら誰とですか?」

 志季の可能性が否定されて透は呆気に取られ、当の志季本人は「ああ、なるほど」と納得した様子でいる。

 頭の整理が追いついていないであろう透に、僕は宣誓の台詞を告げる。

 

「ーー僕と勝負しよう。五十嵐透」

 

   4

 

「なるほど……あの子たちが一高に、な」

 神羅市の中心にして最大規模の駅、神羅駅の近くのビジネスホテルの一室にて。

 スマホを操作しながら男が独りごつ。

 出水家にアポ無しで訪問した時、写真立てに現在の家族の様子があったのを見て時の流れを再認識した。

「あれからもう十二年、か。それは大きくなるわけだ」

 写真フォルダの時系列を過去へと進めると同時に自分と元妻の容姿が若く、子どもたちの顔立ちや体付きが幼くなっていく。

 家族で過ごした記憶が自然と思い起こされ、楽しかったことや辛かったことが鮮明に脳裏をよぎる。

 そんな中、一枚の写真が目に留まった。

 絹より澄んだ純白色の長髪を腰まで伸ばし、サファイアのように美しい碧眼を無邪気にはにかんだ笑顔で細く見せた美しい女性。

 彼女の両腕にはスケッチブックが大事そうに抱えられている。

 腹部は満月型に膨らんでおり、懐妊していたことが見て取れる。

 郷愁で心臓が破裂しそうになる感覚を察知して、そっとスマホの電源を落とした。

 

◯運任せに生きること

 遅れて部活に参加した僕たち三人は、揃って現れたことを多少言及されたものの特に支障はなく、ある程度基礎打ちを済ませて一、二回ほど別の人と試合をした。因みに僕は全敗だった。

 そして、部活終了を二十分後に控えた時。僕と透はエキシビションマッチと断って真ん中の、体育館出口側から二番目コートに揃って入った。

「勝負は21点先取の一ゲームマッチ。君が勝ったらさっきのことを不問にし、尚且つ有益な情報を提供する。僕が勝ったら強制的に退部する。異存はないね?」

「分かりました。対戦よろしくお願いします」

 冷静さを取り戻した透が至極落ち着いた調子で応じる。

「さて、話は以上。司、今の取引の保証人になってくれるかな?」

 ネット端、主審の位置に立っている部長ーー久遠﨑司に責任を丸投げした。

「退部って……お前ら何があったんだよ」

 状況を飲み込めていない司の隣に志季が近寄る。

「詳しくは私から説明します。試合を始めましょう」

 腑に落ちないながら、司はゲーム開始のコールをする。

「それじゃ……ファーストゲームラブオールプレイ」

 戦いの火蓋が切って落とされた。

 透のショートサーブがサーブライン左側の際どい位置に落下する。着地の寸前で僕はラケットを捻り、シャトルを高く上げる。

 透のコートの縦三分のニくらいの距離の中央に跳ね上がったシャトルに向かって透が高く跳躍し、左手に握られたラケットが素早く振られる。

 的確にミートに命中したシャトルは僕のコートの左側に鋭く刺さり、先制点を取られてしまう。

「…1-0」

 司が半ば呆れたかのように得点をコールする。

 シャトルを右手のラケットを操って払い上げ、そのまま透の方に軽く打つ。

 その際、口の端を笑ませるのが見えた気がした。

「なるほど……確かに難敵だね」

 相手の実力を再認識し、次の攻防戦に備えた。

 

   1

 

 同刻、京介を連れた迅が校内の自販機から帰ってきた。

 部活終了である19時を目前にして、使い終えた三コートが既に撤去されている中、残った一コートには男女問わず部員の人だかりが出来ていた。

 どよめきの渦中には肩で息をする透と汗は流しつつ表情は冷静でいる佑李がネット越しに向き合っていた。佑李の左手には新しいシャトルが摘まれており、主審の司の足下に落ちている羽の形が崩れた三つのシャトルが試合の熱戦さを物語っている。

「サービスオーバー、19-16」

「!?」

 バドミントンの得点のコールはサーブ権を持っている方から先に呼ばれる。即ち、今現在リードしているのは佑李の方だ。

 透のコートの後方高くに打ち上げられたサーブを透が佑李のコートの後方右手に同じくらいの高さで返す。

 それを察知していた佑李が余裕を持って落下地点まで進み透のコート左手前に緩く返球する。

 点対象の位置にいた透が前方に素早く駆け出してネット際にヘアピンで返そうとする。

 しかし上手くいかず中途半端に高くなり、既にコート前方にいた佑李に簡単に打たれてしまい、コートの後方ギリギリに着地する。

「20-16。サーバーマッチポイント」

 残り一点で佑李の勝利が確定する。

 不意に佑李が透にだけ聞こえる声で語り始める。

「入部当初に見た弱いはずの僕にどうしてこうも追い詰められているか。きっと不思議でならないだろうね」

「……っ!」

「けどね……」

 佑李が素早く水平にサーブを放ち、透が佑李のコート右後方に慌ててそれを跳ね上げる。

 予測していた佑李が余裕を持ってスマッシュで強襲する。

 透がレシーブに失敗して、シャトルが佑李のコート中央にふわりと浮かび上がる。

 佑李は背を向けながらそれに向かって高く跳躍する。

「ーー僕の妹が誰か知ってる?」

 スパンッ、という激しい音を伴って強烈なバックスマッシュが放たれた。

 目にも止まらぬ速度をのせたシャトルは透の股下を通過して床に勢いよく衝突した。

「21-16。ゲーム」

 佑李の勝利が確定し、歓声と拍手とで空間が包まれた。

 コートの中央で、透は打ちひしがれている。

「時間もないし、さっさと片付けるぞ」

 司の一言で他の部員が一斉に動き出す。

 コートを片付けながら迅は佑李の方を見る。

 駆け寄ってきた志季の頭に佑李は左手で触れながら一言、「ありがとう」と呟いた。

 

   2

 

 二日後の昼、冷蔵庫の中身がそろそろお粗末なので日曜午前の部活帰りに志季と駅地下の食品店に寄った帰り道。

 七月前だと思えないほどの茹だるような暑さに少々気を落としながらも、志季との雑談を楽しみながら家路についた。

「結局、透が勝った時に与える予定だった情報ってなんだったんだい?」

「それね。君二ヶ月前に何者かによって痴漢されたでしょ?実はあの時に折った指の主は透だったんだ」

 この件を何かしらの形で透が訴えれば僕は間違いなく傷害で罪に問われてもおかしくはない。しかし、ここには一つ罠がある。

 どうやら、志季もそれに気づいたらしい。

「なるほど……いや、待てよ。それは私に痴漢したことも同時に露呈してしまうんじゃないか?」

「そう。つまりこれは諸刃の剣だったわけだ。尤も、証拠不十分として取り扱ってもらえない可能性の方が高いだろうけどね。現に目撃者もいなかったようで僕はこうして日常を謳歌し続けている」

「けど、それはそれとしてまだ疑問が残るよ。兄さんはどうしてあのとき折った指が透のものだと分かったんだい?」

「実は僕らと透の最寄駅がここだったみたいでね。部総会での顔合わせの前にも何度か見かけてたんだ。丁度その次の日に右手の薬指に包帯を巻いていたから、おそらく彼で間違いないと判断した。唯一評価すべきは痴漢の際に態々利き手の左手を使わなかったことだね」

「はは、確かにそうだね」

 とはいえ事の内容は些か滑稽だった。その可笑しさから僕たちは揃ってクスクスと笑った。

 僕らが住む部屋から200mほど手前で信号待ちをしている間、僕は一昨日のことを思い出していた。

 

 部活が終わって帰りの電車を待っていたとき。

 20時を過ぎると校門を閉められてしまうので、僕、志季、司、透の4人は駅構内で透の処遇に関する話をしていた。

「確かに条件ではああ言ったけど、実際に僕に部員を退部させる権限はない。だからこれから透をどうするかの判断は司に委ねるよ」

 試合中主審をしていた司は、同時に部活前の僕らの間で起こった事の顛末を志季から聞かされていた。

 それ故に司はとても難しい顔で思案を巡らせていたようだが、やがて結論が纏まりその内容を打ち明ける。

「俺の顔に免じて退部の話は無しにしたい。だけど、このことは然るべきところでしっかり話す。いいよな?三人とも」

「はい……!ありがとうございます!」

 退部の話がなくなった途端透は安堵の表情を浮かべる。

「はっきり言って、十分すぎる決断です。ね?兄さん」

「うん。英断だと思うよ」

 司の言葉のポイントは後半部分。

 法で裁けないなら社会で裁くという言葉があるように、この件が流布されれば透は間違いなく部内、引いては学校に居場所が無くなる。

 態々学校に報告することによる僕らの手間を省き、尚且つ透の想像以上に過酷になりかねない未来を約束したのだ。

 そんなぬか喜びをしている透にせめてもの救いを与えるべく、僕は透の肩を軽く二回叩く。

「なんですか?」

「将来困らないために僕からアドバイスをあげようと思ってね」

 言いながら、志季とラケットを買いに行った日に遭遇した女性の、五十嵐と書かれた免許証を思い出した。

「お母さんは、くれぐれも大事にするんだよ」

 何のことか分からずに、透は首を傾げる。

 

 時は日曜日である今日に戻る。

 アパートの前に辿り着き、やっと強い日差しから逃げ切れたことに僕はやや歓喜していた。

 食品店で買った品の入ったエコバッグを志季は僕の手から取り上げて数歩前に進み僕の方を振り返る。

「どうしたの?ここまで来て僕のお手伝いなんて」

「ふふ。だって今日は久々にアイスを楽しめるからね。暑い時期に食べる冷たいものほど美味しいものはないだろう?」

 この子のたまに見せる純粋な笑顔は僕の脳を破壊するのにうってつけすぎる。

 心がもっと直接的に身体に影響を及ぼすとしたらもう何回落命しているか知ったものではない。けどそんな死に方はある意味本望だ。

「おい」

 不意に後方から、低く重い男声が聞こえる。

 振り返れば、頭頂部の髪が少し薄くなっているやや肥満体型の、僕よりも少し背の高い男性が表情を憤怒一色に染め上げていた。

「てめぇだな?出水志季ってのは」

 男の視線が四季の方に向く。

「何のご用でしょうか」

 僕が間に入って男に問う。

 男は怒りに任せて一方的に語り出す。

「何のご用でしょうか?それはてめぇらが一番分かってんだろうが!嫁がおかしくなったと思えば白髪のガキとその兄のせいだと言って、息子がおかしくなったと思えば出水兄妹のせいだと言って……!だからオレがてめぇをしめてやるんだよ」

 男が志季の方に歩を進めるのを確認して、僕は急いで志季に指示を飛ばす。

「志季!逃げろ!」

 男の方を見据えていた志季が僕の言葉を受けてアパートの方へ駆け出す。

 その間僕は同じく駆け出そうとする男の行く手を阻み、進路を妨害する。

「チッ……どきやがれ!」

 右手で僕を突き飛ばして進もうとするが、その直前に僕は左手側に移って足を掛けて転ばせる。

「ぐっ……!」

 走り出した勢いを保ったまま男が地べたに伏した。

 男のヘイトを僕に向けるべく、僕は彼に声をかける。

「蛙の子は蛙とはよく言ったものですね。今なら何故透があのような性格になったのか、容易く想像出来ます。どうして人を責める前に自分を顧みることが出来なかったんですか?」

「黙れ黙れ黙れ!」

 逆上した男が起き上がり僕を激しく睨め付ける。そしてズボンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、その右手に刃渡り12cm程のペティナイフが装備された。

 この状況になった以上ある程度想定していたとはいえ、流石に目の当たりにすると冷静さを欠いてしまう。

「死ねぇっ!!」

 右手が僕に振り落とされようとする。

 咄嗟に僕は後ろに飛び避けたが、そのナイフは振り上げられたままでいる。見ればその腕は別の人物によって行動を制限されていた。

 ナイフを止めた僕よりも頭半分ほど背の高い男性は淡々と男に語りかける。

「銃刀法違反に傷害未遂、ついでに住居侵入罪で三つ。幸いここには監視カメラもあるから、言い逃れはできない。さて、どうする?」

「……くそっ!」

 後からやってきた別の男性によって男に手錠がかけられ、僕を救った男性に確認を取る。

「出水さん、この人はどうしましょうか?」

「法の下に正当な手段で裁くといいだろう。話せばきっと理解してくれる」

「……イズミさん?」

 呼ばれた名前に僕が反応すると、男性は微笑を湛えて答えた。

「久しぶり、と言っても流石に覚えていないか。何せ十二年ぶりの再開だからな」

 僕と同じ焦茶色の髪に一筋の茅色のメッシュ、髪色より少し黒い双眸を遮る度の低いメガネ、数本の小皺と言う出立ちのこの男性に僕は見覚えがあった。

 

「ーー俺は出水桐谷。会えて嬉しいよ、佑李」

 

 物心着く頃に母さんと離婚した実の父親、その人だった。

 

   3

 

 突然のアクシデントが過ぎ去ったあと、父さんを部屋に招いてリビングの四人がけテーブルでぼくの右隣に志季、正面に父さんと言う形で向き合っていた。

 右にいる志季からはどこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。

「改めて久しぶりだね、父さん。正直なところ記憶にはあまり残っていないけど、いつか直接会ってみたいと思っていたんだ。母さんが話したがらなかった分、自分の父親が辿った軌跡がどんなものだったのか、すごく興味があるよ」

 純粋な僕の言葉に父さんは呆気に取られていた。

「佑李。その、怒らないのか?」

「怒る?どうして?」

「どうしても何も、俺はある意味で君たちを捨てたようなものだ。そんな相手に対して恨みを感じたりはしないのか?」

 少なくともそういう自覚はあったんだ。そう思ったが、捨てたという言い方には少々語弊がある。

「恨み、ね。確かに母さんは大変そうだったし、僕らもたまに父親がいないことを指摘されたりもしたさ。けど幸い、それによって悪い方向に向かうかと言ったらそういうわけでもなかった。それに捨てたとは言うけど、僕は父さんが毎月必要以上に養育費を母さんに納めてたことを知っている。本当に大切じゃないなら、こんなことすらしないんじゃないかな」

 ある時偶然見かけた家の通帳に、イズミキリヤという人から毎月73万円もの振り込みがされているという旨のことが記載されているのを見つけた。

 年収換算でおよそ900万円。一般的なサラリーマンの年収が400〜500万程だとすると、その額の異常さが伺える。お陰様で僕たちはお金が原因で生活に困窮することはなかった。

「……はは。暫く見ないうちにこんなに達観した考え方を持っていたとはな。これなら、安心して次の話ができそうだ」

「やっぱり。こんなことを話すために会いに来たわけじゃないんだね」

 今になって漸く僕らの前に顔を出したのは何かしら理由があってのことだろう。

「……志季のことなんだが」

 ここまでずっと口を噤んでいた志季が自分の話題だと聞いてピクリと肩を振るわせた。

 机の下で微かに震えている志季の左手が助けを求めるように少しずつ僕の方に寄ってくる。けど踏み出しきれないのか、その手は志季の膝の上で止まってしまった。

 だから僕はその手をそっと両手で包み、緊張を解こうとした。弱々しく感じた僕より二回りほど小さなその手は、その様子からは考えられないほどの強い力で僕の手を握り返した。

 志季の方を見た。少し荒くなっていた息がだんだん落ち着いて、無理やり笑顔を作りながら「もう大丈夫」と言わんばかりに頷いた。

 それを確認して父さんが口を開く。

 

「佑李と志季、君たちは違う母親から産まれた」

 

 突如突きつけられた衝撃的な事実に、僕は驚きを禁じ得なかった。

 刹那、僕の手を握る力がより強くなる。

 父さんは胸ポケットからスマホを取り出して、少し操作したのちそれをテーブルに置く。

「一つずつ説明していこう」

 写真に写っていたのは志季とよく似た綺麗な容姿、純白色の長髪に碧眼、歳の頃は二十代前半と思しき女性が子どものような可愛らしい笑顔でいる様子だった。

 しかしその人は病衣を身につけており、右腕には点滴、撮影しているのはベッドの上だった。

 何より気になったのは腹部。まるで受胎しているかのように丸々と膨らんでいた。

「佑李が生まれる前ほどまで、俺は国際弁護士として各国を渡り歩いていた。その間色々なトラブルに巻き込まれたり、様々な出会いと別れを経験してきた。ノルウェーで出会った彼女もその一人だ」

 滔々と語られる中、志季は繋いでいた手を強引に離してしまった。

「この子の名前はエルカ・メルトール。見ての通りアルビノ患者だ」

 アルビノ。日本では白子症とも呼ばれる二万人に一人の割合で起こる難病の一種だ。

 遺伝子の突然変異により生まれつき身体のメラニン色素が薄いため日差しに弱く、視力も人一倍低い。

 これは動物にもしばしば見られる現象で、基本的にアルビノの個体は他の個体より極端に寿命が短くなる。

「闇医者に便宜上アルビノの研究として色々と酷い扱いを受けていたところを救い出して、信頼できる伝に匿ってもらった。不幸にもこの闇医者はギャングと繋がりを持っていたようでね。もし研究成果が出れば金になると判断した彼らは行方不明になったエルカを血眼になって捜索した。だから彼女は外に出ることが出来なかった。日本に帰国するまでまだ時間があった俺は彼女の話し相手となったんだ」

 父さんがどんな手段でそのエルカという人を救ったのかは分からないが、何となく弁護士の域を逸脱した方法である気がした。

「そんな中、彼女は夢を語った。自分の死期がそう遠くないことを悟っていたエルカは俺に伝えたんだ。母親になりたい、と。だから俺はまず養子を取ることを提案したんだ。けど、彼女はそれを断った。どうしても自分の子を産みたい、と。そして俺に父親になって欲しい、と」

 父さんの苦笑にはどこか哀愁が漂っていた。

「今にして考えてもとても短絡的で早計だったと思う。けど、これまで悲しい運命を辿っていた人物の最後で最期の頼みであると思うと……どうしても断れなかった。俺は遺伝子を提供して、彼女は無事身籠った。この写真は日本に帰国してから半年ほど経って、佑李が産まれてしばらくしてから彼女を匿っていた人から送られたものだ。聞いたところによると、状態も至極良好だったそうだ。……この時までは、な」

 父さんの声と表情に曇りが生じる。同時に、志季が左手で自分の胸を抑える。

「出産予定日に合わせて、俺は再度ノルウェーを訪問した。久々に会った彼女はとても活き活きとしていたよ。将来のことにあれこれ思いを馳せては楽しそうに笑いをこぼして、産まれてくる子の名前の話題に盛り上がった。出産当日、体の弱いエルカのために帝王切開での出産となったんだが、手術も終わりそうになった時、閑静な施設内に突然銃声が鳴り響いた。見れば、例のギャングたちがいたんだ。遂に匿っている場所を見つけてしまったらしい。手術室は地下にあったんだが、丁度オペが終わって医師たちが出てきたと同時にギャングと鉢合わせてしまい、彼らは目の前で撃ち殺された」

 テーブルの上で組んでいた父さんの手に力が籠る。

「何とか応戦して侵入者の無力化に成功したんだが、その間エルカの存在を失念していた。手術室に戻ると、意識が戻りかけていたエルカはひどく憔悴していた。無理もない。病弱な彼女の免疫力を点滴で補っていたところを、手術の間は子どもに影響が出かねないと外していたからな。手術後直ぐに投薬出来ていれば良かったのだろうが、どうにも遅すぎた。エルカは覚束ない意識の中俺に子どもの姿が見たいと要求した。産まれた女の子を見せると安心したように微笑んで、嬉しそうに涙を流しながら、彼女は息を引き取った」

 想像を絶するほど重く、とても信じられないような話だが、不思議なことに僕は素直に受け取ることができた。

「追っ手を警戒して俺はその子を車で病院まで連れていきながら、エルカとの会話を思い出していた」

 その内容は次の通りだ。

ーーキリヤさん、日本にもノルウェーみたいに四季があるって本当ですか?

ーーそうだ。それに季節ごとに全く違った文化や楽しみがある。

ーーそうなんですか……。いつかこの子が産まれたら、日本に行ってみたいです。その時は、案内をお願いしてもいいですか?

ーー構わない。その時が来たら、清水寺を紹介しよう。あそこは日本の四季を楽しむのに最適な場所だ。

「結局彼女の想いは叶わなかった。だから俺はそれを子どもの名前という形で残したんだ。日本の四季へ憧れた想い、という意を込めてーー」

 一泊置いて、名前を呼んだ。

「ーー志季。出水志季、と」

 

   4

 

 語り終えた後、志季の方に目を向けると案の定と言うべきか、俯いて涙を流していた。

 そんな彼女の背を撫でながら、僕は父さんに問う。

「父さん、二つ質問があるんだ」

「何でも言うと良い」

「一つ目、志季もある程度アルビノの……エルカさんの形質を受け継いでる。けど大きな病気に罹ったこともなければ風邪も全く引かない。志季はアルビノじゃないの?二つ目、母さんにはどう話したの?」

 父さんは首肯をもって答える。

「まず一つ目だが、生後の血液検査で俺の免疫力の特徴が強く出たんだ。俺はこれまで一度も病気を患ったことはないからな。そして二つ目、身寄りのない友人が死んで病むを得ず引き取った養子だと伝えた。嫌がってはいたが、虚偽の事情を話して納得してくれたよ」

 頭の中で渦巻いていた疑問が解消する。同時に志季が立ち上がり、部屋を後にしようとする。

「志季?」

 意図をなんとなく察しつつ、僕は声を掛ける。

 ドアの手前で立ち止まり、僕に向けて言葉を発する。

「……がっかりしただろう?ずっと一緒に過ごしてきた存在が実の兄妹じゃなかったなんて」

 下を見ながら志季は独白を述べる。

「五歳の時に私達に血のつながりがないのを母さんから聞かされて、私はあの家に拠り所が無くなるのを恐れた。兄さんに気に入られて、認めてもらうために、出来ることは全部してきた。たまに失敗したとしても、兄さんは温かく受け入れてくれた。けど、それは私のことを本当の妹だと思っていたからだろう?もし養子だと分かっていればこうはいかなかった。十六年もの間、ずっと兄さんを騙し続けていたんだ。だからもう……ここにいる資格はーー」

 言い終わる前に、志季のことをそっと抱きしめた。

「……え?」

 志季が珍しく間の抜けた声を発する。

「あのね、志季。どうして僕がこれまでずっと志季のことを大切に思っていたか、誇りに思っていたか分かる?」

「そんなの、私が本当の妹だと思って」

「違う」

 ネガティブな思考は即座に否定する。

「妹だから、家族だからじゃない。他でもない志季だったからだよ。何事にも本気になる姿が、好きなものに一途な姿が、今の君の立場を成している。そこに血縁なんて関係ない」

 それに、と続けて志季にこちらを向せてまっすぐ視線を合わせる。目の周りが真っ赤になっていた。

「僕たちが過ごしたこの十六年の間で一日でも心の底から楽しいと、幸せだと感じたことはないの?少なくとも、僕は君がいてくれて毎日楽しいし幸せだったよ。だから、さ。そんな悲しいこと言わないでよ」

 一瞬唇を軽く噛み締め、志季は上目遣いで僕の方を見やる。

「……私、まだ兄さんの妹でいていいのかい?」

「誰も咎める人なんていないよ」

「……兄さん」

「何?」

 志季は両手を僕の背に回し、目線を足下にそらす。

「……今だけ、胸を借りても良いかい?……この気持ちを、抑えられそうにないんだ」

「もちろん。それで気が晴れるのなら、いくらでも協力するよ」

 志季に倣って、僕も彼女の背中と頭に手を添える。

 僕が志季の嗚咽を聞いたのはこの日が初めてだった。

 

   5

 

 すっかり日が暮れて、父さんと別れの時間がやってきた。とは言っても、夏至が近いので日没の時間はかなり遅い。

 玄関ポーチで父さんが靴紐を直している。

「志季は?」

「泣き疲れて寝ちゃったよ」

 あの後志季の部屋に連れて行き、何度も何度も感謝の意を伝えられた。ベッドに座って暫く泣き声を聴いていたが、段々と音が小さくなって行き、聞こえなくなったかと思えばその軽い体重の全てを僕に預けていた。

 流れでそのままベッドに寝かせて今に至る。

「父さんは、母さんとやり直す気はないの?」

 丁度蝶々結びを整えて立ち上がった父さんが振り返る。

「実は君たちに会う前に母さんには会ったんだが、そのときにその話題にも触れてな。子どもたちももう世話が必要なほど幼くないし、金銭的に困ってもいない。仕事柄俺は家を空けることもそう少なくない上に、その話の中でこうして君たちに自由に会うことも許された。けどこれはある意味で再婚してもしなくても同じではないか?という結論に至ったんだ」

 つまり、再婚はしない方針で行くのだろう。

「一応僕は再婚をお勧めするよ。仮に各地を放浪する身であっても、故郷と呼べる場所、最終的に帰り着く場所はあるべきだと思うんだ。それに少なくとも、僕が産まれたってことは結婚当初は上手く行っていたんじゃないの?」

 父さんは腕を組んで、右手を顎に当てて思案する。

「一理あるかも知れないな。考えておくよ。尤も、あの人が許してくれるならの話だけどな」

「確かに。でももし受け入れてくれるなら、僕の夢も叶いやすくなるかもしれないからさ」

「夢?」

 夢という単語に父さんは反応した。

「そもそも、何で僕らがこうして母さんの元を離れたのかは聞いた?」

「……いや、その話はしなかったな」

 興味を示した父さんに僕はこの二人暮らしをするに至った経緯を語った。

「ーーなるほど、Vtuberにな。良い夢じゃないか。俺は反対はしないが一つだけ言っておくとすれば、」

 父さんが改めてこちらに向き直る。

「選択の機会があるのなら、後悔しない方を選ぶんだ」

 こくりと頷いて、僕はその意志を脳に刻む。

 その反応を見て、父さんは玄関のドアの方を向く。

「また会おう。次に会うのがいつになるのかは分からないが、いつでも連絡するといい」

「出来れば実家で会えると良いね。その時は母さんとの馴れ初めの話でも聞かせてもらうよ」

「はは、そんなに面白い話でもないぞ?」

 朗らかな笑顔を残して、父さんはドアを押し開けた。帰り際に見えた背中の広さは、決して普通ではない想像を絶するほど壮大な歴史を辿ってきたことを物語っている、そんな気がした。

 

◯楽しい楽しい夏休み

「分かってはいたけど、ヨーロッパ行となると流石に安くないね」

「大丈夫さ、私たちには父さんもいるからね。どうせならついでにボディガードもお願いしよう」

「父さんの扱い雑だなあ」

 リビングの小テーブルの上のラップトップと志季のスマホには旅行に関するサイトが展開されている。

「エルカさんのお墓ってどこにあるんだっけ?」

「アレンダール。オスロから南西に向かったところだね。たしか何年か前に話題になったあの映画の舞台の地だね」

「近々二作目が出るみたいな話もあったね。そっか、あの姉妹ってノルウェー人だったんだ」

 夏休みを目前にした僕らは志季の産みの親であるエルカさんの墓参りと避暑を目的に、ノルウェーに関する観光誌やら旅行サイトやらを見漁っていた。

 やがて調べ疲れたのか、ソファーで隣に座っていた志季が伸びをしたかと思えば、

「えいっ」

 可愛らしい掛け声と共に、ラップトップの画面と睨めっこしていた僕の両肩を背もたれに押し付けて、自分は僕の上に跨った。

 そして顔を近づけながら囁いた。

「ふふふ、これがガチ恋距離ってやつだね」

 志季のことをよく知らない人ならきっと男女問わず堕ちていると思う。

 当然ながら僕はそのほどじゃなかったので、

「……ひゃっ!」

 逆に座面に押し倒し、志季の右手首を左手で軽く抑え、右手は顎付近に添える。

 しばらく反応を観察していると、志季の顔が段々と上気してくる。

 それを悟られたくなかったのか、そのまま僕に抱きついてきた。

「……ずるいじゃないか。私が兄さんのことを好きだと知っておきながら……」

 その言葉を聞きながら、志季の体を優しく包み込む。

「逆に言うと、志季じゃなかったらやってないよ」

「当たり前だ。何せ私は兄さんの世界に一人だけの愛すべき妹様だからね」

 得意気に言う志季が愛しくて笑う。

 つられて志季も笑う。

 電子レンジの調理が完成する音でお互いを解放した。

 完成した食事を食卓に並べて、少しおしゃれなグラスも添える。

 生憎飲酒は出来ないので、中身は葡萄ジュースで代用した。

 正面に座る志季が左手でグラスを掲げて言葉を述べる。

「私たちが出会えた過去の悦びに」

 僕も志季に倣って左手でグラスを掲げて言葉を紡いだ。

 

「僕らに訪れる未来の愉しみに」