◯独白
人々は往々にして他者の才を妬むもの
自分が苦労して漸く手に入れるようなものが、所謂天才と呼ばれる人物にとっては何でもない道端の石程度のものだったりもする
私もまた、その天才と呼ばれる内の一人だった
九歳のころ、周りの子供達が剣の素振りをしているのを横目に、私は大人の剣士を自らの力でねじ伏せていた
そんな私を賛美する人もいれば羨み、妬む人もいた
唯一いなかったのは、私の気持ちを聴こうとする人
どれだけ私が訴えても、思いは誰にも伝わらず、勝手なイメージやレッテルを貼られ、ずっと孤独を強いられた
ランスロットの名を冠すると、その感覚はより強まり、誰も私のことを慮ることをしなくなった
だからある夕暮れ、王宮を一人抜け出して生まれ育った森に行き、淡い光の前で願った
誰でもいいから、私の気持ちを吐き出して受け止めてくれる人に出会いたい、と
◯時を駆ける国際交流
六月の下旬のとある日。アパートの403号室にて、
「はぁぁぁぁぁぁ…………」
ベッドに大の字になって吐いたため息は秋ごろに頻繁に日本を襲う台風宛らの大きなものだった。
その理由を理解するためにはまず私ーー出水志季という悲運な少女のことを知ってもらう必要がある。
私は現在公立進学高校である神羅第一高等学校、通称神羅一高の三年生の理系クラスに在籍している。
努力の甲斐あって学業における成績はどの教科を取っても常に学年最上位。
またバドミントン部に所属している私は、先日の県高校総体においても個人シングルスで強豪私立の生徒を抑えて準優勝というなかなかに良い記録を残している。
更に私の見た目はそこそこ日本人離れしている。後頭部で縛った染髪できない白色の髪にサファイアと同等の蒼色の両目、加えてそれに調和するような整った容姿をしている(周りの人に言われてのことだが、正直言って自覚はある)。
これらの要素が手伝ってか、私はよく色々な人から賞賛されたりもするし、懸想の念を抱かれることもそう多くない。が、私はそれらには全く興味がない。
努力の目的が自己成長でも、将来の準備でも、はたまた他者からもてはやされることでもないのならこれらは一体何のための努力なのだろうか?
答えは至ってシンプルなもの。全ては私の愛しい愛しい兄さんに認めてもらうためだ。
私の兄さんこと出水佑李は私より一つ歳上で、去年高校を卒業し、夢を実現させるために東京の大学に進学した。
ルームシェアをしていた私たちの生活が、兄さんの卒業を機に私たちの仲を引き裂くことで独り暮らしへと堕ちてしまったのだ。
毎晩私からの電話に応じてくれるが、こんな生活が三ヶ月続いて、私の精神はどうやらすっかり参ってしまったらしい。
兄さんに会いたい。兄さんに褒めてもらいたい。兄さんに触れたい。そんな欲求不満が募りに募った末にさっきのため息がある。
というかそもそも……
「虚無に向かって自己紹介をするあたり、私ももう終わっているな……」
今更ながら自分のここまでの行為の異常さに気づいた。
さて、買い物にでも行こう。今冷蔵庫には大した食材がない。金曜日この時間の駅地下の食品店では普段より商品が安くなる。
思い出した私はエコバッグと財布を手に家を出た。
1
円安による物価高の中、金曜日のこの店だけは価格高騰の渦中にある卵や乳製品を破格の値段で販売してくれる。
食材を買うときのコツで、作るものを決めてから必要なものを買うのではなく、お手頃さを感じる物を手に取り、そこから作るものを考えるという手法がある。
肉や野菜のような日持ちがよくないものなら出来ないが、卵や乳製品のように賞味期限が1〜2週間ほど続く物が安い場合、次に買い物に来た際買わなくてもいいように多めに買い溜めることができる。この場合短い帰り道とはいえ荷物が重くなるのがやや難ではある。
などと考えつつ、両耳に装着したワイヤレスイヤホンで音楽を聴きながら調味料コーナーで少し前に切らした醤油を探していると、
「志季せーんぱいっ」
不意に正面から私を呼ぶ声が聞こえた。
そちらを見やると私よりひとまわりほど小さな、軽くパーマのかかった亜麻色の髪と愛嬌のある笑顔が特徴的な女の子がいた。
「萌音か。奇遇だね」
この娘の名前は高咲萌音。私の所属するバドミントン部の文系クラスの二年生で、去年の初めに隣の402号室に入居してきた。
実家から学校までの距離が遠いため、高校進学を機に一人暮らしを始めたのだとか。
「先輩ってポニーテールも似合いますね。前のおさげも可愛かったですけど、なんで髪型変えちゃったんですか?あ、もしかして失恋とか?」
このように、萌音はよく喋る。部内ではムードメーカーの地位を確立しており、それでいて八人いる二年生部員の中では三番目にバドミントンが上手い。
「失恋、ね。なまじ間違っちゃいないさ。私が髪型を変えたのがいつだったか覚えているかい?」
「え?えーっと、確か三月の真ん中くらいに……あ、もしかして」
ハッとした顔になり、萌音は得心する。
「そう、忘れもしない3月16日午前11時42分。あの日兄さんは私を一人残して東京に旅立ってしまったんだ。私は……捨てられてしまったのさ」
「ちょ、先輩。醸し出す空気が陰鬱過ぎてこのコーナーだけ誰も近寄らなくなっちゃいますって。確かに佑李先輩がいい人なのは分かりますけど」
気づけば調味料コーナーの列は時間にしてはありえないくらいがらんどうになっていた。比喩だと思ったが、本当にそういう空気が出ていたのかもしれない。
またこの発言から分かるように、萌音も兄さんの魅力を理解している数少ない一人でもある。
セルフレジで商品を全て読み込むと、やはりいつもより一、二割ほど安くなっていた。恐るべし、週末市。
袋詰め作業をしていると、同じく横で同様の作業をしていた萌音が私のマイバッグに何かを入れた。
「あたしからの奢りですっ」
明らかに何か企んだ笑顔で言う萌音。何を入れたのか見てみるとその一番上にあったのは、
「……ホットケーキミックス?」
「また一緒にお菓子作りしましょ?先輩」
「お菓子作り……ああ、そんなこともあったね」
去年の十二月、クリスマスケーキの予約が間に合わなかったと帰りの電車で私と兄さんと鉢合わせた萌音が嘆いていたのを聞いて、
「どうせだったら自作してみる?」
という兄さんの提案で私たちはクリスマスケーキを作った。
その際、偶然家にあったホットケーキミックスを利用して製作したので、それが萌音の記憶に根強く残っているのだろう。
あれから暫くの間、萌音のチャットのアイコンがあの時のケーキの写真になっていた。
「仕方ないな。いいよ、またやろう」
萌音はその一言で一気に上機嫌になる。萌音はかなり甘党で、当のケーキも三分のニほどは萌音の胃袋へと納まった。
また料理が不得意な萌音はここ最近定期的に403号室を訪れるので、今週末にでもやってしまおう。
揃って退店しながら私たちは雑談を続けた。
「志季先輩ってよくフランスパン買ってますよね。好きなんですか?」
「元々は兄さんの趣味だったんだ。料理の幅が広がるからってよく隣接してるパン屋に態々寄ってね。私も真似してみたら存外ハマったんだ」
「ふーん、やっぱり不思議な人。普通あんま思いつかないですよ。そんなこと」
「兄さんの思考はそう易々と読めるものじゃないさ。それこそ、妹の私でさえもね」
「じゃああたしも佑李先輩の」
「ダメだ。兄さんの妹という崇高で唯一無二の席は私だけのものだ。幾つもいらない」
「あははっ!そう言うと思ってました」
「君ってばねぇ……うん?」
気づけばアパートのすぐ近くまで来ていたが、妙に違和感を覚えた。
前から来る人たちがほぼ例外なく、アパートの駐車場の方を二度見しては怪訝な表情を浮かべていたのだ。
「どうしたんですか?先輩」
「変だと思わないか?すれ違う人のリアクション」
萌音は頭上に疑問符を浮かべていたが、やがて駐車場が見えてくるとそのリアクションの理由が理解出来た。
アパートの正面玄関の前に人が二人会話しているのが見えた。
片方はアパートの一階部分のほぼ全体を住居としている、白髪混じりの黒髪に紺縁メガネをかけた中肉中背の男性。この人はアパートの大家、ありていに言うとオーナーで、人徳者のとても人柄が良い人なのだが、何やら困った顔をしている。
その困る原因を作ったであろうもう一人の人は、長さが腰まであろうかという私と同じく綺麗な白い髪をハーフアップにまとめており、豊かに膨らんだ胸にモデル顔負けの調律の取れたスタイルと170cm程ある身長を持ちながら、シアンブルーの瞳に可愛らしい童顔というギャップが映えるとても魅力的な女性だった。
しかし、二つほど不可解な点がある。
一つ目は服装。ファンタジー作品で見るようなライトアーマーに髪の色と同じ純白の外套、そして腰には持ち手にルビーのような紅い宝石が嵌め込まれた派手な装飾の西洋剣を佩ていた。
仮にコスプレだとしたらあまりにもTPOを弁えていなさすぎる。
「ああ、志季ちゃん!よかった、助けてくれないか?」
大家が私の元へ駆け寄り、そう言って救いを求めた。
「大家さん、何があったんですか?」
「それは寧ろこっちが聞きたいくらいだよ……何せボクは英語が分からなくてねぇ」
二つ目、彼女の使用言語が明らかに日本語のそれではなかったこと。
不安そうに眉を八の字に曲げる彼女に近づき、私は声を掛けた。
『やあ、初めまして。早速だけど、ここじゃ悪目立ちするから場所を移してもいいかな?』
もちろん英語で。
生憎私はネイティブ並の英語力がある。
彼女は明らかに驚きつつも応じた
『!……良かった。漸く私の言葉が通じる人に出会えました』
発音の特徴からして、おそらくはイギリス辺りの人だろう。
一旦大家に事情を軽く説明し、私は彼女と萌音を連れて403号室に入った。
玄関ポーチで土足のまま上がろうとしたので、困惑しながらも彼女は私たちに倣ってブーツを脱いだ。
正面に彼女、右に萌音という構図で食卓に座ると、彼女が話を始めた。
『改めて、初めまして。私のことはランスロットとお呼びください』
萌音が小声で私に質問した。
(先輩、この人今なんて言いました?)
……呆れた。萌音には後で中学のリスニングからやり直すことをお勧めしよう。
浅学な萌音は一旦さて置いて、私は彼女ーーランスロットに質問した。
『よろしく、ランスロット。私は出水志季。志季って呼んでくれて構わない。色々と聞きたいこともあるけど、君も言いたいことが山ほどあるだろうからまずはそれを聞くことにするよ』
『ありがとうございます。まず最初に、私の服装が皆さんの文化と大きくかけ離れた物だというのは既に感じていると思います。私もそうでした』
コスプレイヤーでもこんな辺鄙な街中でこのような姿はしないだろう。
『信じてもらえないことを承知で言いますがーー』
ランスロットは言葉に詰まって、かと思えば深く息を吸って、決心がついたように息を吐いた。
『ーー私は1623年、7月12日のウェールズから時を越えてやって来ました』
その言葉は私の予想と遥かに乖離していて、荒唐無稽な信じ難いものだった
2
「先輩!これ絶対似合いますよ!」
「どれ……うん、悪くないね。それも追加しよう」
次の日、幸い部活が休みということでランスロットが現代日本で生活できるようにまずは服が必要だろうということで、萌音と私は駅ビルの服屋に来ていた。
昨日の夜の時点で正直言ってかなり混乱していたが、恐らく不安な感情はランスロットの方が大きいだろうと無理矢理割り切って、訳の分からないこの状況を受け入れた。
身寄りのないランスロットは一旦私で預かると言う話に落ち着いて、不本意だが今彼女は兄さんの部屋で暮らしている。せめてベッドだけでも私のと交換しておけばよかった。
「それにしても、ランスロットさんホント可愛いですよねぇ。世の男の人たち皆オチちゃうんじゃないですか?」
「ああ……確かにね。私のサイズが合わないからたまたま残っていた兄さんの服を着させることになったのはとても不満だけど」
兄さんは基本何を着ても似合う。だから服屋に訪れた時、たまに男性が着用してもおかしくないレディースの服を買うとかもあった。
ランスロットが今朝部屋着として身につけていたそれは、その兄さんがかつて着ていた、私にはオーバーサイズな服だった。しかも本人自身の可愛さと着こなしたときのスタイリッシュさとがいい感じのギャップを生み出している。気に食わない。
もちろんその敵意を態々剥き出しにすることもないが。
一通り普段着を物色した後、下着コーナーに足を運んだ。
「萌音、ランスロットのスリーサイズ覚えてる?」
「上から順に94,63,83です。羨ましいですねぇ」
「仮に君がそのまんまの数字のプロポーションだったとして、一周回って気持ち悪くなりそうだね」
「ちょっとくらいあたしに夢見せてくれてもいいんじゃないですかねぇ!」
萌音は風船みたいに頬をぷくーっと膨らませる。
余談だが、一番上だけ言うと萌音が78、私が86だ。
ランスロットのサイズに合う下着を探しながらふと、私たちがこのサイズの下着を買うのを店員に見られて色々と邪推された場合の若干の恥ずかしさを想像していた。
しかしその小さな懸念は店内のレジが全てセルフ方式だったことにより、無事に杞憂に終わった。
その後同じビルにある本屋に寄って、両手に大量の荷物を抱えながら帰宅した。
萌音と403号室に入ると、兄さんの部屋の扉が半開きになっているのが見えた。
靴を脱いでこっそり中を見ると、ベッドに座るランスロットが昨日見たあの剣を一心不乱に見つめていた。
時刻は13時過ぎ。そろそろ昼食の時間だ。私はランスロットに声を掛けた。
『お腹空いてないかい?一緒にランチでもどうかな?』
相当集中していたのだろう。一瞬、私の声に肩を震わして素早くこちらを向いた。
『あ……いえ、そんな。衣服に一晩の停泊までさせていただいて、これ以上施しを受けてしまっては返しきれなくなってしまいます』
『どうせ他に身寄りもないんでしょ?少なくともそれまではうちにいなよ』
『けど……』
ぐううううう…
間の抜けた音が部屋に響いた。
同時にランスロットが赤面する。
『ほら、空腹には抗えないんだからさ。おいでよ』
恥ずかしさで顔を歪ませながらも、ランスロットは無言でついてきた。
私はキッチンに移動し、鍋に水を入れてそれをコンロで弱火にかけた。
乱切りにした人参と皮剥きしたじゃがいも、塩、コンソメキューブを投入して、一旦蓋を閉める。
もう一口のコンロで軽く切れ込みを入れ2.5cm角に切った牛肉にフライパンで軽く火を通し、兄さんにもらった調理用の赤ワインを少量入れ、蓋をして耳を澄ます。
ワインが完全に蒸発する音を聞いて蓋を開き、フライパンをコンロから離して輪切りにしておいたネギと肉を鍋に投入する。
表面に油が浮かぶのを確認し、火を止めてパセリを散らしたら完成。
オーブントースターでスライスしておいたバケットを一、二分ほど焼いたものを長方形の木製の皿にのせ、スープを三人分の深皿によそい、食卓に並べた。
「君も手伝ってくれてよかったんだよ。萌音?」
「うっ……あ、あたしは食べる方が得意なので……」
当然のように着席していた萌音がそそくさと人数分のスプーンとコップを用意する。
全員が食卓に着いたのを確認して私と萌音は手を合わせ、ランスロットは出てきた料理に目を丸くしつつも私たちに倣い手を合わせる。
「「いただきます」」
そういって私たちは食事を始める。
「あ……イタダキ、マス?」
たどたどしい日本語で私たちの真似をする健気なランスロットに、思わず微笑みが漏れた。
スプーンで人参を掬い、ランスロットは恐る恐る口に運ぶ。咀嚼した瞬間、その目を見開いた。
『これは……カウル……!?』
予想通りのリアクションに私はこっそり口の端をつり上げた。
バケットに手を伸ばそうとしていた萌音は、やはりと言うべきかその理由が分からず私にその疑問をぶつけてくる。
「先輩先輩、なんでランスロットさん驚いてるんですか?」
「後で説明してあげるよ」
噛み締めるようにスープを味わうランスロットも同じく私に質問する。
『どうして、どうしてこの料理を知っていたのですか?』
私は笑顔をもって返した。
『それもまた、あとで教えてあげるよ』
3
手早く食器や調理器具の後片付けを済ませて、萌音とランスロットにリビングのソファーに座ってもらい、私はテレビと手元のタブレットを接続した。
テレビの画面にタブレットの画面が映し出される。
その間も、ランスロットは何が起きているか理解が追いつかず、何度も眉間に皺を寄せていた。
タブレットを操作して、テレビの画面にとある地図を映し出した。
『さて、これは何でしょうか』
クイズを出題するような口調で、尚且つ英語で二人に問いかける。
萌音が首を傾げる一方で、ランスロットはハッとした表情で答えた。
『ウェールズ、でしょうか?』
『正解、その通り!』
やっと自分の知識が及ぶ範囲のことが出てきて、どこか嬉しそうなランスロット。
それももしかしたらこの後打ち砕かれることになるかもしれない。
地図を少しずつ縮小させると、グレート-ブリテン島とアイルランド島の全体像が見えてくる。
『まず、ウェールズは時を経て周辺3カ国、イングランド、スコットランド、海を隔てた北アイルランドと統合して現在のイギリスっていう形になったんだ』
更に地図を縮小させて、イギリスを中心としたメルカトル図法の世界地図が現れる。
ランスロットのかつて生きた時代が大航海時代で助かった。思っていたほど驚いていない。
というかそもそも、学校で教わった世界史の知識がこのような形で役に立つとは思いもしなかった。
『航海士マゼランの一行が世界を一周したという話はもしかしたら知っているかもしれないね。その航路の過程で私たちの国を通ることはなかったけど、世界にはウェールズ以外にも多くの国があることは理解したんじゃないかな?』
こくりと小さく頷くランスロット。隣にいる萌音も同様に頷いた……と思ったら、ただ睡魔に敗北して首をカクつかせているだけだった。やはり後で一発入れることにしよう。
『そして、私たちの生活する国、君がいる国がここだ。日本っていう名前なんだ。是非日本語でも覚えておいてね』
私が「日本」と言うと、ワンテンポ遅れて「ニ、ニホン」とランスロットが繰り返す。可愛い。
『今は君のいた時代から大体400年ほど経ったんだけど、その間に世界は国境を越えて繋がった。それは勿論、意見の相違で未だ戦争を続けている国だってあるけど、少なくとも君の時代ほど殺伐とはしていないと思うよ。それに君が今日常的に使っている英語も、今や世界の多くで伝わる言語となった。そういった意味では君が思っているより、この時代は生きやすいかも知れないね』
言語さえ変わっていないのなら生きていくのにそこまで苦労しなくなるだろう。
『私が今操作しているこれもそうだけど、世界中にインターネットと言うものが普及していて、それをこう言った端末で利用することで世界のあらゆる文化も手に取るようにわかるんだ。君の祖国、ウェールズの郷土料理だってね』
尤もあのカウルは私のアレンジをふんだんに織り込んではいたが。
『さて、ここまでで何か質問はあるかな?』
顎に手を当てて暫し思案した末に、ランスロットは疑問を投げかけた。
『私の生きた時代では実質的に世界を支配していたのはそれこそ先進的に海を渡っていた、そのスペインやポルトガルという国だったと思うのですが、そこでの公用語が英語だったから世界に英語が広まっている。そういう認識でいいのでしょうか?』
『例に漏れず君の国、イギリスもこの大航海の波に乗った一国家だった。もしかしたら知ってるんじゃないかな?コロンブスのアメリカ大陸発見、ヴァスコ=ダ=ガマのインド渡航。特に前者は後に世界的に大きな力を持つ国へと成長してね。今の時代から百年前くらいに勃発した世界大戦で日本もこのアメリカに敗北したんだ。戦勝国は敗戦国に自国の言語を無理やり教えるという暗黙の了解があって、戦勝国の多くの公用語が英語だったから世界で伝わるようになった。この辺りで良いかな?』
理解してくれたようで、ランスロットが大きく頷く。ちょっとだけ笑顔でいるように見えるのはきっとイギリスの話題が多く出て誇らしく感じているからかな。
『さて、他に質問がないなら私からも質問していいかな?』
『私の時間移動のことで間違いないでしょうか』
『まさにその通りだよ。差し支えなければ説明してくれるかな?』
ランスロットは胸の前……否、胸の下で腕を組みながら目を閉じる。やがて目を開き、こちらの様子を伺いながら語り始める。
『シキ、貴方は魔法が実在すると言って、信じますか?』
『ここまで来たら信じる他ないだろうね。君の存在こそが何よりの証左だ』
『良かった。そうすると話は早いです』
安心したように笑むとランスロットは兄さんの部屋の方、今停泊している部屋から例の剣を持ってくる。
『実のところ、私の世界でも魔法の存在はごく一部の者にしか明かされていませんでした。その理由として、魔女を畏怖していたことが挙げられます』
魔女。中世ヨーロッパ辺りで悪の対象として恐れられた存在。確か魔女狩りだと言って民衆の決めつけで魔法が使えるとされた女性の多くが惨殺されたとか。
そういう背景がある以上表立って魔法が使えるなどと言わない方がいいのは確かだ。
『私も便宜上魔法を使えます』
『便宜上?』
『はい。厳密にはこの剣の元来持ちうる力ですので、私自身が使えるというと少々語弊があります』
明かりを消してもらえますか?というランスロットの指示に従い、私は照明を落としてカーテンを閉めた。
ランスロットは刃を下向きにして両手で持った剣を強く握りしめる。するとーー
「っ!」
宝石の部分から淡く赤黒い光が発されたと思えば、たちまちその光は稲妻状に四方八方へ散乱を繰り返した。
嫌な寒気さえ感じ始めていた頃、それに気づいたランスロットは慌てて剣に込めていた力を緩める。
私はすぐにカーテンを開け、ランスロットに向き直る。
『……なるほど。確かに現代科学ではとても説明がつかない現状だね。今のは』
『そうですか。やはりこの時代は科学の方が主流になっているのですね』
寂しそうに表情を重くするランスロット。
『……と、すみません。話が脱線してしまいました。このように、私はこの剣で時間魔法を使ってこの時代へ現れました。まさか場所まで移動しているとは思いもしなかったですが』
『もしかしたら、時間じゃなくて時空の間違いだったのかもね』
『ふふ、そうかも知れませんね』
ランスロットはこちらに無理やり作った笑顔を向ける。
『この剣はアロンダイト。ウェールズに伝わる伝説の剣の一つです』
聞いたことがある。円卓の騎士であるあのランスロットの愛刀として有名な一振りだ。
元は聖剣だったが、アーサー王との決別をきっかけに魔剣に堕ちたとかなんとか。
しかしそれよりも、
『つまるところ君はあのランスロットなのかい?』
私が指しているのは円卓の騎士の方だ。その意図を察したランスロットは首を左右に振り、否定する。
『確かにこの剣と共に彼らも実在していましたが、それも5〜6世紀ごろの話です。私はただ襲名しているに過ぎません』
なるほど。どうやら複雑な事情があるようだ。
『……もっと聞きたいことが沢山あるけど、一旦ここまでにしようか。続きは気が向いたら、或いは必要に応じて話してくれればいいよ』
そうでなくても、私の脳のキャパシティ的にそろそろしんどい。整理の時間が欲しい。
『それと、萌音を起こしてもらってもいいかな』
ランスロットは首肯して萌音の体を揺する。
その間に私は自室に移動して、十分ほど前にひっそりとポケットの中で震えていたスマホを操作し、ベッドに座りながら着信履歴の一番上をタップして通話を試みた。
三コール目がなり終わった後で、相手が応じた。
『もしもし』
電話口から柔らかい男性の声が聞こえた。
「兄さん。ごめんね、連絡が遅れてしまって」
通話相手は毎晩数十分と言う短い時間、それはまるで長年深く愛し合った恋人のように、或いは腹の底を曝け出して通じ合える親友のように接してくれる私の最愛の兄ーー出水佑李その人だった。
『良いんだよ。昨日の夜、珍しく電話してこなかったのもきっと何か理由があるんじゃないかな?』
「兄さんってば……本当に、私のことなら何でもお見通しだね」
兄さんは私の全てを理解してくれるから、私は安心して全てをこの人に託すことが出来る。
「……話、聞いてくれるかな?」
余程ストレスが溜まっていたらしい。気づけば涙声になっていた。
『勿論だよ。時間はいくらでもある。落ち着いて、自分のペースで話すといい』
私はこの短い期間に起きたことを一つ一つ詳らかにしながら、滔々と兄さんに吐き出した。
その間兄さんはずっと優しく相槌を打っては、私に共感してくれた。
『ーー確かにあまりにも非現実的過ぎる話だけど、志季が言う以上嘘ではないみたいだね』
「そうなんだ。……ねぇ兄さん、どうしたらいいかな。私」
兄さんは思考を巡らせているのか、数秒の間が開く。
『まずは、そう弱気にならないこと。きっと一番不安なのは間違いなくランスロットだろうからね。次に、萌音を頼ると良いんじゃないかな』
「萌音を?」
『そう。英語に関しては……まあ、知っての通りだろうけど、コミュ力が異常に高いからね。きっと役に立ってくれるはずだよ』
「ああ、そっか」
私としたことが、視野狭窄もいいとこだ。何も人の能力は学力や運動神経だけで易々と測れるものではないというのに。
『あとは、そうだな……』
まだ続きがあったらしい。私は引き続き兄さんの言葉に耳を傾けた。
『大学が七月真ん中から九月頭まで夏休みに入るんだけど、都合がついたらその間だけでもそっちに行くことにするよ』
「本当に!?」
光の速さで反応し、勢いのまま立ち上がった。
『確約は出来ないよ。大学以外にもやることは案外多いからね。また予定が決まったらその時にでも報告する。いつでも連絡していいから、困ったら無理に抱え込まないこと』
「ありがとう、兄さん。頑張ってみるよ」
大分心が軽くなった気がする。それに、もしかしたら兄さんが一時的に帰って来るかもしれない。その事実だけで私の中から負の感情は完全に消え去ってしまった。
しばし雑談を続けて、別れを惜しみながらも通話を終了した。
「さて、私は私に出来ることをしよう」
部屋を出てリビングの方に視線を向ける。
ソファーで萌音がランスロットの頬に触れていた。方やランスロットの方はというと、全く嫌がっている様子はなかった。
どちらも承知の上での行為なのだろうが、いつの間にあんなに仲良くなっていたとは。萌音のコミュ力もさることながら、これを見越していたであろう兄さんの慧眼もまた常軌を逸しているのだと再認識した。
4
いくらなんでも、学校にランスロットを連れていくわけにはいかない。邂逅初日の段階でその思考に至っていた私はその次の日に服屋と同時に本屋に寄った。
幸いと言うべきか、外国人向けの日本語学習の本がその書店には多数売っていた。
もしも無かった場合は幼児向けの物でも購入しようと思っていた手前、少々手間が省けたと言えよう。私の登校中はそれを利用して日本での生活に不自由を感じないように努めてもらう手筈になった。
そんなわけで週明け。私より早く起きていたランスロットにカトラリーで食べられるような朝食を振る舞い、足早に登校した。
蛇口をひねれば綺麗な水が出ることにさえあたふたしていたランスロットを家に一人残すことに一抹の不安を覚えたが、後は本人の理解力と運に任せることにした。
四時間目ーー英語の授業中にふと、ランスロットも箸の使い方を覚えた方がいいかもしれないなどと考えていると、
「じゃあこの部分の訳を……出水。よろしく頼む」
英語科担当の吾峠先生に英文和訳の認を命ぜられた。
今年で三十七歳になる吾峠充先生は生徒からの評判が良く、授業中によく家庭の話を持ち出してくるほど家族が好きな男性なのだが、授業中に呆けている人を頻繁に指名してくる癖がある。
勿論、私はそれでミスを犯したことはない。
「はい。『箱の中でうねうねと激しく蠢動していた直径1cm程のその紐の正体は、つい先ほど購入した釣り餌用のミミズだった』でしょうか」
「なるほど、解答例より解答例らしいな」
今授業で扱っているのは、父親と初めての釣りに来た少年の経験談を情緒的に表現した物語なのだが、なかなかにミミズの書き方が生々しい。
訳の途中で気分を害してもおかしくないな。
吾峠先生が家庭菜園の話を持ち出した辺りで授業終了を告げるチャイムが鳴る。
名残惜しそうに先生は話を切り上げ、簡単に次回の説明をする。
挨拶を済ませて廊下のロッカーに辞書やら参考書やらを収納していると、鼻腔に薄くシトラスの香りが広がった。
匂いの元を辿ると左手側に下ろしたブロンドヘアーのルーズサイドテールと代赭色の目は、それらの特徴に上手く溶け込んだ端正な顔立ちを有する少女がおり、彼女ーー鏑木未來は私の視線に気づくと目を合わせてはにかんだ。
一応校則で染髪は許されているが、父親がイギリス人である未來のそれは完全に遺伝の代物だ。
「香水なんて珍しいね。彼氏でも出来たのかい?」
「受験期に彼氏なんて作る気ないよ。それに、私が男の人苦手なの知ってて言ってるよね?」
小学生のころから今まで家族ぐるみで仲が良かった未來はその体の小柄さ、声と雰囲気の清楚さが原因でこれまで多くの男子に告白を受けてきた。
父親と私の兄さんくらいの男性としか関わってこなかった未來はこれによりすっかり参ってしまったらしい。逆説的に兄さんのことをかなり好きになったのだとか。
将来的に、仮に兄さんと結ばれるのが未來なら全く文句はない。
「お昼ごはん、今日は志季ちゃんの机で食べる?」
気づけば未來の右手にはランチバッグが握られていた。
「いや、ちょっと大事な話があってね。なるべく人がいないところにしよう」
一旦教室に戻り、自分の昼食を取って廊下に出る。
その足で未來と共に閑静な体育館の二階部分に移動して、バスケに興じている男子たちを見下ろしつつ弁当箱を開封した。
「大事な話ってなに?」
「なんとなく、未來には話してみたいと思ったんだ。金曜の夜にね、うちにホームステイの子がやって来たんだ」
未來を信頼していないわけではないのだが、真実を伝えてしまえばいらぬ混乱を招きかねないので、ところどころ脚色を加えながら話す。
「ホームステイ?志季ちゃんって一人暮らしじゃ無かった?」
「そうだね」
「留学生を受け入れる時間なんてあるの?こんな大変な時期に」
「いや、何もホームステイは留学生だけを指すわけじゃないだろう?」
「む……確かに」
意図せず叙述トリックが発動してしまったらしい。他方で、ホームステイと言う他なかったのもまた事実だ。
どこか納得していない様子で未來は小さな口でサンドイッチの鋭角を食む。
「事情を聞いてなんやかんやあって今はうちにいるんだけど、思っていたほど苦労はしていないんだ。あちらもまだ幸いカルチャーショックに陥っていないようでね」
「新手のイジメかな?そのなんやかんやのところを詳しく教えてくれない?すっごく気になっちゃうよ。生殺しもいいとこ」
「はは、今日の未來も切れ味が高いね」
知識欲の化身たる未來は何かしら不明瞭な情報を与えるとそれを解き明かそうとして更なる知恵や見解を求めるきらいがある。
それ故に学年では私に次ぐ高成績、更に科学系のコンクール等ではいくつもの賞を取っていた。
全ては本人の知識欲を満たすための副次的なものに過ぎなかった。今の未來の最大の命題は恋愛心理学だそう。
「そういえば、未來は大学どこ行くかもう決めたのかい?」
「うーん……佑李くんが東京の大学行ったでしょ?だから私もそっちに行って、あわよくば住ませてもらおうかなって思ってた。東大もあるし」
「あくまでも兄さんと住むのがメインなのか。私が言うのもアレだけど、東大の扱い方が些か雑じゃないかな?」
「志季ちゃんも知っての通り、私もあんまりコミュニティや肩書きに執着しないタイプなの。この学校に来たのだって佑李くんと志季ちゃんがいたからだよ」
淡々と語りながら、未來は二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。
「そういう志季ちゃんはどこ行くの?大学」
「未來と全く同じ方向で固めてるよ。私は兄さんさえいればそれでいい」
「病的だね。その佑李くんへの弛まぬ愛は」
「勿論さ。誰だって負けてくれるつもりはない」
少し良い気分になりながら、私は肉巻きを箸でつまむ。噛むたびに肉汁が溢れ、それが重くならないようにアスパラガスがカバーしている。我ながら悪くない出来だ。
「件の佑李くんはもう受かったの?オーディション」
「二月末から募集の方はダメだったみたいだよ。あまりにも急ピッチだったから仕方ないと言えば仕方ない。私も兄さんに送られたのを見たんだけど、まあ杜撰だったね。失礼ながら笑いを禁じ得なかったよ。ただ五月末からの方で無事二次審査まで通過したらしい。今は三次審査の準備中だって」
「倍率どれくらいだったっけ?」
「さあ。公にされていないから詳しいことは分からないよ。アカデミーが設立する前は多い時で1200倍とかだったかな」
「1200……!?」
「アカデミー設立後は定員も十数人くらいに増えたから三、四百倍くらいまで落ち着いたらしいけど」
「それでも応募者数千人いるんだよね?よく通ったね。そんな狭き門」
「熱量がとんでもないんだ。私の兄さんへの気持ちと一緒さ」
「……それで納得出来てしまうの、なんか悔しい」
小さく頬を膨らませる未來をしたり顔で見つめながら箸を弁当箱に向ける。しかし、そこにはもう何も残っていなかった。
話に夢中になっている内に食べ終えてしまったらしい。
渋々蓋を閉めて、ランチバッグに片付けた。
(……ランスロット、ちゃんとお昼食べてるかな)
「何か言った?」
心の中で言ったつもりが、声に漏れていたらしい。
「いや、何も。そろそろ戻ろうか」
「私まだ食べ終わってない」
三つ目のサンドイッチを両手で持つ未來が不満を口にした。
5
「ただいまー、っと」
まだ兄さんがいた頃の癖で、未だに帰宅した時にただいまと言ってしまう。
普段なら私の声が虚しく響くだけだが、
『お帰りなさい、シキ』
今はネイティブな英語で返事が返ってくる。
玄関ポーチの奥、廊下の先の扉からランスロットが笑みを湛えて私の方を見ている。
『ただいま、ランスロット。私がいない間、何か苦労しなかった?』
リビングの方まで移動しながら問いかける。
『恐らく、大丈夫だったと思います』
『恐らく?』
言い回しが絶妙に引っ掛かり、つい聞き返してしまった。
『はい。と言うのも、私は過去の人間なのでもしかしたら知らず知らずのうちに迷惑をかけているかもしれないですから』
なるほど、つまり目に見える失敗はしなかったわけだ。ただ怪我や体調不良の兆候が見られない以上は特に問題は無かったと判断して良いだろう。
『ところで……』
玄関の方へ視線を送りながらランスロットが言う。
『今日はモネはいないのですか?』
『萌音?ああ……』
どうやら日本の学生の一日に関して少し説明する必要がありそうだ。
『この国ではね、私みたいな年齢の人の多くは決まって学校に通うんだ。一つの場所に若い生徒が集まって教師による師事、即ち授業を受ける。土日を除く週五日、一日あたり約五、六時間の間、適度に休憩を挟みながら色々な教養を学ぶ。私が今朝早くに家を出たのも、朝からその授業があったからなんだ』
『学校……良い制度ですね』
思うところがあるのだろうか、ランスロットが俯く。
『ウェールズでは教育を受けられるのは決まって貴族だけでした。後の為政者となる者、その夫人となり得る人物の育成を何人もの講師を雇い、たった数人程度に全てを注ぎ込んでいました。そのため平民はまともな教育を受ける事なく、聖職者や貴族の尻に敷かれるばかりでした』
食卓の椅子に二人揃って座りながら、ランスロットは自嘲気味に語りを続ける。
『私も元は平民出身ですが、剣術の才を見出されて国運営のとある養成所に入り、剣術を鍛える傍らである程度の教育を受けてきました。私が置かれていた環境、引いては国の実態を知ったのはその時からだったと思います。次第にそれに気付かない他の養成所のメンバーと私とで距離ができてしまい、幸か不幸か周りより勉学にも秀でていた私を講師は優遇し、話を聞こうとする人はついにいなくなりました』
哀愁を漂わせるランスロットに、どことなく私はシンパシーを感じていた。
『……君は、どことなく私に似ているね』
『シキに、ですか?』
口の端を少し吊り上げて、静かに頷いた。
『私もね、兄さんに認められたい一心でこれまで色々なことをやってきた。こと勉強に関しては常に同期の生徒を圧倒してきた。お陰様でかるーくイジメを受けることもあったかな?まあ、程度が低かったから無視したし、私の才は兄さんのためのものだったから周りの目だとか理解だとかどうでもよかった。兄さんが理解してくれたからね』
夢中で話していると、気づけばランスロットが羨望の眼差しを私に向けていた。
『良いお兄さんを持っているのですね』
『控えめに言って世界一良い人だと私は思っているよ』
『ふふ。それはまた、お兄さんも大変そうですね』
『おいそれどう言う意味だい?』
確かに愛が重い自覚がないわけではないが、兄さんがそれで気苦労しているかと言えばそんなことはないはずだ。多分。
『普段はとても温厚で賢い人なんだ。私は幼い頃から一緒にいたから気づかなかったけど、かなり変わってる人みたいでね。それでいて私のことをちゃんと見てくれていたから、私にとって本当にかけがえの無い存在だよ』
思い出すと会えない狂おしさでかえって気がどうにかなりそうだ。
それもきっと今から話すことである程度中和できそうだが。
『そんな兄さんだけど、一度だけひどく怒られたことがあってね。兄さんの力になりたい気持ちが先行し過ぎた挙句、自分自身に向き合っていないと突き放されてしまったんだ。兄さんはどうも、私が兄さんのために生きるのをあまり良しとしなかったんだ。自分の意思に従って生きて欲しいって。正直言って、未だにそれは兄さんに尽くすこと以外見つかっていないけどね』
語り合えると、奇妙な辛気臭さがリビングを支配した。
ランスロットは視線を私からやや下げている。その目には同情と、そして羨望も混じっているように見えた。
『……少し変な空気にしてしまったね。話を戻そうか。萌音がまだ帰ってきてない理由だったかな』
『え、ええ。そうでしたね』
半ば無理やり話題を晒して、説明を再開する。
『さっき授業の話をしたと思うんだけど、多くの生徒は放課後に授業と別で何かしらの活動をするんだ。萌音は今その真っ最中だから今ここにはいないわけだね』
同じ部活に所属していた私は既に引退しているので、この点に関して質問されたらまた後で答えよう。
『部活……どんなことをしているんですか?』
『君の時代にテニスはあったかな?交互に球を打ち合う遊び』
顎に指を添えてランスロットは思案する。
『……そういえば、貴族の間でそんな遊びが流行っていた気がします』
『私たちがやってるのはそのテニスと似たような種目で、バドミントンって言うんだ。もっとも、現代においてはテニスもバドミントンも明確なルールが決められていて、貴族の戯れという側面はすっかり形を潜めているけどね』
社会人になると上司との付き合いでやることもある、みたいな話は聞いたことがある。
『なるほど……。その、もし良かったら、私にそのバドミントンというものを教えてもらえませんか?』
興味を持ってくれたらしい。願ってもない話だ。
『勿論さ。体を動かさないことで私に剣を振りたくなっても困るからね』
『そ、そんなことはしませんよ!?』
若干の動揺が見られるあたり、その衝動が無かったわけでもないらしい。メンタルケアだけは怠らない方が良さそうだ。
6
同刻、ウェールズ某所にてーー
『本当にこんなとこにいらっしゃいますの?』
ウェーブのかかった金髪を揺らしながら、苛立ち混じりに少女が問いかける。
『そうらしい。近くにはいないだろうけど』
それを受けて薄紫色の前髪の間から気怠そうな目線を送りながら、もう一人の少女が無機質に返す。
『それにしても、先ほどから随分と煩いですわね、この辺りは。いっそのこと……切ってしまおうかしら?くひひっ』
『珍しく意見が合致した。本当にやっちゃう?』
『そこまでにしろ、二人とも』
路地の奥から低い声が聞こえた。少女たちは反射的にそちらの方を向く。
『今回の遠征の目的を、もう失念したか?』
『全く、それくらい分かっていますわ』
『冗談が通じない』
純白色の短髪と琥珀色の双眸が特徴的な青年が、厳しい表情を二人に向ける。
『アロンダイトの奪還、ですわよね?しかと心得ていますわ』
『それ、変更があったはず』
『変更?何の話ですの?』
『やはり聞いていなかったか』
溜め息を吐きながら青年は二人を睨め付ける。
『罪人ーーランスロットの処刑だ』
◯中世っ娘の現代化
『少し厚みのあるカード、でしょうか?……わっ!』
初めて触れるスマホを物珍しそうに見ていたら、ディスプレイに指が触れて画面が展開されて、ランスロットは分かりやすく驚いて見せた。
手から滑り落ちそうになるのを慌てて防ぎ、恥ずかしそうに私に視線を送る。可愛い。
予期せぬ共同生活開始から十数日経ったある週末の昼のこと。
職業柄多くの分野に精通している父さんにも相談して、現代人にもはや必要不可欠となりつつあるスマホをランスロット用に手配してもらった。
それが届いたので、早速ソファーで初期設定をしていた。
いずれ過去に帰ることになるとしても、それまではしばらくいるだろうから持っておいて損はないだろう。
『はは。それじゃあ、まずは画面に触れて下の部分を上になぞって』
『こ、こうですか?』
指示に沿ってランスロットが操作すると、デフォルトで入っているアプリのアイコンが表示される。
画面が動くたびランスロットは肩をビクつかせる。その姿はまるで初めて見たおもちゃをこの上なく警戒する猫のように見える。
キーボード式に並ぶアルファベットを前に『見づらいですね』と小さく文句を言いながら必要事項をかなりスムーズに記入していくランスロット。
おそらくフリック入力の方が難しい可能性もあるからまだマシだと思う。
それにしても、色々なことに対する順応が早い。
知らない世界に来た以上それまでの常識が通用するとは限らない。その考えが念頭にあるかどうかは分からないが、こういった柔軟さが学習能力や各種対応力の高さに繋がっていると考えると納得がいく。
やがて初期設定が完了すると、ランスロットは左手で眉間を抑えながら力なくソファーにしなだれかかった。
『うう……少し、酔った気がします……』
思えば500年前に電子機器の類は存在しない。画面酔いを起こしても何ら不思議ではないだろう。
余談だが、初期設定の中でランスロットの誕生日が五月十一日、年齢が十七歳、つまり私の一個下であることが判明した。
体格からあまり想像がつかないけど、妹が出来た気分で少し嬉しい気もする。
『ところで、これは一体何のための作業だったのですか?』
いつもより数段階弱々しい声音で疑問を口にする。
『これはスマートフォン、日本ではスマホと呼ばれる精密機械の一つだ。この時代ではこれ一つで時間、天気、メモ、更には音楽鑑賞や調べ物、遠距離にいる人とリアルタイムで連絡を取ることまで出来るんだ』
ランスロットからスマホを借りてチャットアプリの設定を済ませ、私のスマホを操作してランスロットに返す。
英語で「こんな感じにね」と表示されている画面を見て、ランスロットは感心したように目を輝かせた。
『……やはり、文明の発展は侮れないですね』
『千年前の人の一生の情報量が今の一日のそれと一致するくらいだと言われているからね。でも私は数十年前の人でさえついていけないこの時代に、数百年前から来た君が対応できていることの方が格段にすごいと思うよ』
素直な感想を告げるとランスロットは照れくさそうに微笑んだ。
その他各種設定をしていると、不意にインターホンが鳴った。
玄関の覗き窓で来客を確認すると予想通り萌音がトートバッグ片手に立っていたので、鍵を開けて歓迎した。
「こんにちわー、お邪魔しますっ」
憎めない笑顔をもって玄関ポーチに上がる萌音。
「いらっしゃい、萌音」
「あ!ランちゃん!」
最近萌音はランスロットのことをランちゃんと呼ぶようになった。
リビングの扉からこちらの様子を伺っていたランスロットを見つけた萌音は小走りでそちらに向かい、半ば飛びつくようにランスロットに抱きついた。
それをランスロットは嫌がるでもなく、笑顔で優しく抱き返す。
知らない間にこんなに深い友情が芽生えていたとは。
「そう言えば、萌音とランスロットは同い年らしいね。さっき偶然知ったんだけど」
「そうなんですよ!いや〜ビックリですよねぇ」
……ん?そうなんですよ?
何気ない言葉がなんとなく引っかかり、その意味をおよそ理解しつつ確認した。
「萌音、もしかしてだけどランスロットの年齢を知っていたのかい?」
「一週間くらい前に聞きました。ついでに母子家庭で一歳下の弟もいるって言ってましたよ」
一緒にいる時間が長いはずの私より何故かランスロットのことをよく知っていた萌音。
しかし英語がお世辞にも得意とは言い難い萌音とランスロットが何故こんなにも通じ合っていたのだろうか?
「その話、どうやって知ったんだい?英語も話せないで」
「ちょっと言い過ぎじゃないですかねぇ!?私だって簡単な単語くらいなら分かりますから!」
文句を垂れながら肩にかけていたバッグから何かを取り出した。それは、
「ホワイトボードと、水性ペン……なるほど」
「言葉は分からなくても図とかなら分かるかなーって思って、ランちゃんと会って二日目で先輩と買い物に行ったときについでに買ってたんですよ」
コミュ力の高さがこんなところにまで活かされるとは。
おそらく図の解説の中で自分の情報を開示していったことで、ランスロットにも同様の話をさせるという手段を利用したのだろう。
心理学で言うところの認知的不協和を上手く、それでいて無意識に活用しているあたり、萌音もある意味天才なのかもしれない。
「あ、ランちゃんスマホ持ってる!連絡先交換しよ!」
ジェスチャーを利用してチャットアプリの操作を促す。
ランスロットは苦戦しながらもなんとか出来たようで、萌音と無事連絡先の交換を果たしたらしい。日本語が通じれば良いのだが。
楽しそうに談笑する二人をよそに、このコミュニティのグループチャットの部屋でも作ろうと思い自分のスマホを起動させると、一件のメッセージが送られていることに気づいた。
送り主は兄さんで、内容は次の通りだ。
[七月十九日に一旦帰ることにした。二、三週間くらいは一緒に過ごせると思う]
前に電話で言っていた夏休みの帰省の報告だ。
私は即座に返信した。
[了解。楽しみに待ってるよ]
当初の目的を忘れ、およそ二週間後に控えた兄さんの帰郷の日に思いを馳せた。
帰ってきたら十秒に一回愛してると言おう。絶対に。
1
その日の夕方ごろ、私たち三人は市営体育館に訪れていた。
以前話題を持ち出した時にランスロットがバドミントンに興味を持ってくれたようで、彼女の故郷であるイギリスはバドミントン発祥の地とも言われているのでどうせならと思い、ラケットやその他必要なものを買い揃えてその足で体育館に向かった。
買い物には思ったより時間がかかったのだが、その理由としてスポーツブラの捜索に手間取ったのが挙げられる。
まず売り場が見つからなかったこと、そして適正サイズが見つからなかったことが何より大きかった。
何故ここまでこだわったかは言うまでもないと思うが、バドミントンをする上でランスロットのそれは……まあ、目を引くからだ。良くも悪くも。
話を戻そう。今私たちは体育館にいる。
見て真似てもらった方が良いと思い、今は私と萌音でシングルスの試合をしている。
『ーー例えばこの位置に来たらこんな感じで遠くに飛ばしてみたり』
「わっ、ちょ、キッツ」
『逆に相手があの位置にいるから近くにやってみたり』
「待っ、先輩、ちょっと!」
『で、浮いたのが来たら一気にスマッシュ!』
「ひゃあっ!!」
スパンッ!
小気味のいい音と共に私は14-0で最後の一点を決めた。パーフェクトゲームだ。
『バドミントンはこんな感じでやるんだ。理解できた?』
『なんとなくですが、分かりました』
「先輩ぃ……少しは手加減してくだいよぉ……」
英語でランスロットに解説しながら私に容赦なくボコボコにされた萌音は、お買い物悲しがるフリをしながらそんな泣き言を呟いた。
「あのねぇ、私はかなり手加減したぞ?それに引退してからそこそこ時間経ってるのに一点も取れないとはどういうことだい?」
「ブランクあっても県準優勝に勝てるわけないですよっ!」
そういえばそうだったね。自分のことだけど偶に忘れてしまう。
「そんなに言うなら、ランスロットとやったらどうだい?きっと勝てるよ。ていうか勝て」
苦言を呈されて明らかに不満そうな萌音だが、ランスロットの方を向くと即座に笑顔になった。
「ラ〜ンちゃんっ、一緒にやろ〜?」
コートを指差しながらそう言う萌音の意図を察したランスロットは、小さく頷いて立ち上がった。
『お手柔らかにお願いします』
「任せて。全力でやるから」
全く噛み合っていないが、大丈夫だろうか?
一抹の不安を残しながらも試合が始まった。
萌音のロングサーブから始まり、ランスロットは慣れない足取りで後方に下がる。が、思いの外様になっていた。
その調子でドロップでネット近くに落とし、予想していなかったであろう萌音が焦ってロブを上がる。
ふわりと甘い軌道で右側に上がったシャトルに対してランスロットは跳躍し、素早くラケットを振った。
快音と共に放たれたスマッシュは萌音の右側、つまりランスロットから見て左側に鋭く刺さる。
(クロススマッシュ……逸材だね)
残念ながら軌道は少し逸れてアウトになってしまったが、たった一試合見ただけでここまで出来るあたりランスロットの運動センスが相当なものだと伺える。
『ふむ……まだまだ改良の余地がありますね……』
それでいて研鑚家と来た。彼女を天才たらしめたのも間違いなくこれが手伝っているだろう。
「ランちゃん絶対どこかでやってたよねぇ!?強すぎるよっ!」
賞賛とも疑念とも取れる形で萌音が吠える。
「抜かされるのも時間の問題かもね。萌音」
「うう……何も言えない……」
しかし最初こそ動揺していたが、萌音も歴とした経験者だ。最終的には9-15で勝利を収めていた。
「 危なかったぁ……。ランちゃん強いよぉ」
麦茶の入った600mlペットボトル片手にだらしなく座り込む萌音。
『バドミントン……楽しいですね』
タオルで汗を拭うランスロットは満足そうな笑顔を浮かべている。
『時間も遅いし、そろそろ帰ろうか。それとも、もう一試合していく?』
ランスロットに尋ねると、
『では、よろしくお願いします』
予想通り乗り気な返答を貰った。
手加減ありきの一試合で、二失点しつつも私が勝ったのは言うまでもない。
2
数日後の登校日の昼休み。
例の如く私は未來と昼食を食べていた。
「日本も少しは頭良くなったのかな」
「なんだい?藪から棒に」
机を向かい合わせて正面にいる未來が何の脈絡もなしにそんなことを呟いた。
「ここ最近エアコンが公立高校にも施工されるようになったけど、夏場の学生の熱中症患者が後を経たなかったって言うでしょ?未来ある若者を殺すより今の地球の負担を少し重くする方がマシだって気づいたんだと思うと、日本も捨てたものじゃないって何となく思ったの」
「そう……か」
こういう具合に、未來は偶に思いついた批判やら自論やらをつらつらと語る癖がある。興味を惹く話題ならのだが、そうでない場合面倒になることも少なくない。この場合は適当な肯定してあげれば大抵収まるのだが、
「志季ちゃんはどう思う?」
「私?」
こと今日に関してはその「大抵」に収まらなかったみたいだ。
意見を求めてきたときはもっと面倒臭い。納得するような見解を語らないと満足せずに追求してくるのだ。
だから私は未來から話題を振られたとき、常に脳をフル回転させている。
「地球温暖化っていう観点においては、私は人工石油の普及をもっと進めるべきだと思うんだ」
「なんとなくわかるけど、その心は?」
「知っての通り、人工石油の原材料は二酸化炭素と生成された機油を少しだ。二酸化炭素は必要以上に有り余っている。これを利用しない手はないだろう?単価も安いし。産油国との摩擦なんて、彼らもいずれ枯渇するのが目に見えてる以上別の事業に手をつけ始めてるだろうからあまり問題ないと思う。ついでに二酸化炭素も減って万事解決だ。これくらいで良いかい?」
未來は顎に手を当てて難しい顔をしている。
「……一理ある。貿易会社と産油国をいかにして納得させるかだよね……。或いは、既出案として各家庭に給湯機みたいに手軽な形で普及させるとか」
科学と政治とが複雑に絡み合う良い事例の一つだ。知識欲の化身には丁度いいだろう。
「そういえば、あと二週間で夏休みかぁ……。どこか行く予定ある?」
「私が言えた話じゃないけどさ、勉強っていう選択肢はないのかい?」
確かに二人とも予備校の夏期講習や学校の課外授業と言った活動に参加する予定はない。
「そういう未來は何か予定があるのかい?」
「東京の大学でも見て回ろうかな、と。佑李くんのお家に泊まれるかもしれないし」
「下心が丸見えだな。兄さんは靡かないと思うよ?それに……」
話そうとした内容を冷静に思い出して、言い淀んだ。この話題に未來は確実に食いついてくる。
しかしもう遅かった。
「それに、何?」
ズイ、としかめ面を寄せてくる未來
「……いや、何でもないんだ。忘れてくれ」
「それで、はいそうですかってなるほど私が甘くないのは知ってるよね。教えて」
新たな知識欲を芽生えさせてしまった。納得させられるような言い訳は……くそ、思いつかない。
「いや、教えない。どうせ君なら分かるだろうしね」
取り敢えず話を逸らそう。そう思っていたら小さく嘆息している未來の方から話題が飛んで来た。
「例のホームステイの子、ランスロットだっけ?あの子との生活は順調なの?」
「え?ああ、今のところ何も支障はないよ。それに、まだ二週間程度しか経っていないのに簡単な日本語なら喋ることができるんだ。学習能力がかなり秀でているんだよ」
私の回答に、未來は真顔のまま目を丸くした。そしてそのまま顎に手を当てて思案する。
「驚いた。……あの志季ちゃんが……どんな子何だろう……」
何を言っているかははっきりとは聞き取れない。少なくとも、ランスロットに関することなのは間違いないだろう。
「言っておくけど、会わせないからね」
「……ケチ」
頬を膨らませて、未來は不満を吐露する。
その後も他愛もない雑談を続けていると、
「……ん?」
私のスマホが一回振動した。
SNSの類の通知は基本切っているので、誰かからのメッセージだろう。
バッグから取り出したスマホのロック画面に表示されたバナーには、メッセージアプリのアイコン。そして兄さんからのメッセージだった。
[ごめん、そっち行くの少し早くなりそう。大丈夫かな?]
文章の意味を理解し、私の中で冷静という概念が崩壊しかけた。
おそらく今、私は必死でニヤケを我慢しているのだろう。
アプリを展開して、私は即座に返信した。
[もちろんだよ。いつになりそう?]
送った瞬間に既読が付いた。
少し間が空いてまたメッセージが送られる。
[それが……明日になりそうなんだ]
(明日!?)
うっかり叫びそうになった。
口を押さえながらちらりと未來の方に視線を送ると、
「ああ、察した」
呆れたようにも捉えられる声と顔でそんな返しをされてしまった。
加速を続ける心臓の鼓動を抑えようと胸に手を当てながら、敬礼するウサギのスタンプで返答した。
3
帰宅後ーー。
興奮し疲れた私は帰ってくるや否や、吸い込まれるようにソファーに飛び込んだ。
食卓で勉強していたであろうランスロットが立ち上がって、心配がちに私に声をかける。
『シキ、大丈夫ですか?』
献身的で純粋な好意に感謝しながら、私は怠さの混じったトーンで言葉を返した。
『うん。幸せも大きすぎると毒になり得るってことだよ』
意味が分からないと言わんばかりに小さく首を傾げるランスロット。可愛い。
あまりにも言葉足らずだったので、内容を補足した。
『実は、明日兄さんがこっちに来るらしいんだ。それで浮かれ過ぎて疲れちゃってね』
『お兄さんが?明日?』
首肯をして返す。
『私同様兄さんも一学生だからね。私より早く、長い夏休み期間があるんだ。で、元々帰ってくる予定はあったんだけど、どうやら早まったみたいでね』
『お兄さん、ですか。どういった人なのでしょうか』
その質問に、私は速攻起き上がってランスロットの方を向き、
『よくぞ聞いてくれた!』
先ほどまでの疲れはどこへやら、私は興奮気味に語り始めた。
『名前は出水佑李、誕生日は四月五日で年齢は私の一個上、身長は177cm、体重66kg、スラリと長い四肢に恰幅の良いかなり筋肉質な体型、父さん譲りの焦茶色の髪と調律の取れた顔、男性としては平均的な高さの優しい声、掴みどころがないことも多いけど好きなものには真っ直ぐな性格。そんな兄さんは今東京……つまり日本最大の都市で夢を叶えるべくそこの大学に進学して一人暮らしをしているんだ』
怒涛の情報攻めにランスロットはかなり困惑しているようだったが、その程度で私の語りは止まらない。
『私が、自分が養子であることを聞いて以来、不出来な妹だったら嫌われてしまうんじゃないかと思って色々な努力を積み重ねて、多くの結果を残してきた。たまに妹の割に兄は……とか後ろ指を指されることもあったけど、それでも私に嫉妬することなく私のことを認めていたんだ。でも、兄さんが認めていたのは私が出来が良い妹だからじゃなかった。兄さんは私の努力する姿、直向きに兄さんのことを愛する姿を認めてくれていたんだよ。ずっと勘違いしていたみたいなんだけど、そんな私でも愛してくれたんだ。世界に一人しかいない妹だって』
私が一方的に話しながら、理解が追いついたであろうランスロットは感心したように深く頷く。
『本当に、慈悲深い方なのですね。……少し、妬いてしまいそうです』
『妬く?どうして?』
聞くと、ランスロットは私の隣に座りながら悲しそうに笑みながら下を向いた。
『実は私にも一つ年下の弟がいるのです。あの子もまた、私の後を追い養成所に入って実力を伸ばして行きました。けれど、その頃には私は既に様々な功績を立てており、久しぶりに会ったときにはすっかり冷え切った対応をされてしまいました。嫉妬されていた、そう考えるのが妥当だと思っています』
ついこの前、弟がいることは萌音から知らされていたが、私と兄さんの関係と違ってどうやら不仲らしい。
『どことなく、私とランスロットは似ていると思っていたけど、境遇はかなり違うみたいだね』
でも、と私は言葉を続ける。
『もしかしたら、兄さんに会ったら色々と変わると思うよ』
ランスロットはやや唖然とした反応をした後、微笑んで言葉を返した。
『本当に、お兄さんは苦労していそうですね』
『だからそれどう言う意味だい?』
悪意がないことは分かるから、尚のこと意味がわからない。兄や姉だからこそ分かることがあるのだろうか?
『お兄さんもシキ同様に、貴女に認められる、尊敬されるに値するだけの人物になろうとして奮闘しているかもしれない。そういうことですよ』
『……あ』
言われてみれば、思い当たる節は多くある。たった一度、私が兄さんに説教された時もそうだった。
兄さんが夢のために努力していた最中、私がそれに介入しようとした。結果気を悪くさせてしまった。
気遣いのつもりが、構ってほしいだけの甘えだったのかも知れないな。
『君といると、自分の知らない自分に気づくことが出来るな。現代に来てくれてありがとうね』
『それは私も同じことです。こちらこそ、受け入れてくれてありがとうございます』
そう言ってお互いに笑みを交わし合った。
翌日の日暮れごろ。
学校が終わった後に兄さんを迎えに行くべく、帰宅後ランスロットと、話を事前に聞いていた萌音を連れて火垂駅に訪れていた。のだが……
「……なんで君までいるんだい?未來」
招かれざる人物である未來までいつの間にか横におり、本人はさも「当然でしょ?」と言わんばかりの顔でいる。
「だって、志季ちゃんが沈んでいたここ最近の
割に一番ご機嫌だったから。佑李くんでも帰ってくるのかなって思って」
相変わらず恐ろしい思考力だ。敵に回さなくて良かっ……いや、ある意味もう敵と言って差し支えないだろう。
『シキ、そちらの方はどなたでしょうか?』
どこか落ち着かない様子でランスロットが耳打ちする。
『この子は』
『初めまして、私は鏑木未來。志季ちゃんとは旧知の仲で、これから来るであろう佑李くんの許嫁。よろしくね』
「おいこら」
私に代わって自己紹介したかと思えばとんでもないことを言い出した。握手を求められたランスロットは未來の嘘に頬を朱に染めていたが、流れで握手に応じた。
『あ……ええと、ランスロットと名乗っています。その、許嫁、というのは……?』
『結婚相手。有り体に言えばお嫁さんってこと』
「ちょっと待て」
そろそろ暴走を止めないといけない。兄さんの将来を捏造されては困る。それに、
「ランスロットをあまり困らせないでくれ。ただでさえカルチャーショックで苦労しているんだ」
間に入ってそう言うと、未來は分かりやすく目を丸くした。
「ふぅん。志季ちゃん、やっぱり……」
未來は頷きながら何か呟いていたがその意図は分からない。
ため息を吐きながら、私は萌音に視線を移した。
「む……何も分からない」
どこか不満げな萌音はこちらの英会話を理解しようと試みていたのだろうが、あの表情を見る限りでは上手くいっていないのだろう。今はそれで良い。
そうやって数分やりとりをしていると、
【二番線に電車が参ります。危ないですから、黄色い線のーー】
顔に微かな空気の流れを感じたかと思えば、スピーカーから到着の音声が聞こえた。
「やっと……やっと兄さんが帰ってくる……!」
喜びのあまり線路に飛び込みたくなる衝動を、拳を握ることでどうにか抑えながら、私は速度を落とす新幹線を見つめた。
やがて停車した車両の6-1番出口に幾つかの人影が見えた。一人、二人と下車していく中で最後尾にいる人が、それまで眺めていたスマホをポケットにしまいながらキャリーケースを引いて出てきた。
焦茶色に痩身な体型、スラリと伸びた身長と整った顔立ちのこの人こそ、私の兄ーー出水佑李だ。
その姿を確認するなり、私は恥を忍んで一心に駆け出した。
「兄さんっ!」
改札出口に進もうとしていた兄さんは私の呼びかけに応じて注意をこちらに向ける。
「ああ、志季。久しぶーーうわっ!?」
その胸に飛び込もうとして私は兄さんに飛びついたが、兄さんはそれに対応しきれずーー
「……ふう。全く、僕がキャッチ出来なかったらどうするつもりだったの?」
ということもなく、次に目を開くと目の前には安心したような兄さんの顔があった。
どうやら、あの一瞬で私はお姫様抱っこをされていたらしい。
「兄さんなら大丈夫だって信じていたからね」
「それは……確かに?」
納得し切れないような様子で首を傾げる兄さん。
ちなみに、こうして兄さんに飛びつくという一連の流れは昔からもう数十回は行っている。お姫様抱っこまでがお約束だ。
「また大きくなったんじゃない?」と言い、私を下ろしながら兄さんは追ってくる後のメンバーの方へ目を向ける。
「未來に萌音、二人とも久しぶりだね。態々迎えてくれてありがとう。元気にしてた?」
兄さんの問いに萌音が「勿論ですっ!」と調子良く応える。一方で未來は、
「暫く生佑李くんの声を聞いてなかったせいでそろそろ幻聴が聞こえそうになった。この前の志季ちゃんみたいに」
「未來?いくら私でも流石にそんな禁断症状は発症しないよ?」
未来では飽き足らず過去をも捏造し始めたので即座に否定した。本当に油断も隙もない。
そう思っていたが、話を聞いた萌音が懐疑的な表情を浮かべる。
「いや……志季先輩、確か佑李先輩が上京して二日目辺りでナチュラルに佑李先輩の声聞いてましたよね?本人いないのに」
「そういえば、そんな話をされたような」
今回ばかりは捏造ではなかったらしく、兄さんも心当たりがあったように顎に手を当てる。
「うっ、……受け入れ難いけど今回ばかりは認めるしかないみたいだね」
観念した私を見て兄さんが小さく笑う。そのまま、視界の端に映ったであろうランスロットの方を向く。
『君がランスロットだね。初めまして、僕は出水佑李。志季から色々と話は聞いているよ』
流暢な英語を扱う兄さんにランスロットはもう驚くことはなかった。それよりも萌音と目配せをし、胸に手を当てながら私の方を一瞥したことの方が気になった。そのまま瞑目し、ふうっと一つ息を吐いてランスロットは兄さんの方をしかと見据える。
「……は、初めまして。私はランスロットと申します。よろしくお願いします」
その一言に私も兄さんも驚きを禁じ得なかった。拙さこそあれ、ランスロットが比較的ネイティブな日本語で自己紹介をしたのだから。
「……志季。君が優秀なのは前々から知っていたけど、過去の人に言語を、それも文字をただ読み上げるだけじゃなく日本人宛らの発音を覚えさせることなんて出来たの?」
「いや、私はただ教材を提供しただけだよ。日本語だってもっと長期的に覚えてもらう予定だった。けど、これは……」
手取り足取り教えていたわけではなかった日本語を易々と使いこなしてみせたランスロット。
いや、もしかしたらこの一文だけを丸暗記したのかもしれない。そう思ったのだが、その予想は軽々と否定された。
「え、ええと、簡単な日本語なら……少しだけ、覚えました」
遠慮がちにそう語る。慣れない日本語を使っている恥ずかしさからか少し顔は赤くなっているが、それでも私たちを驚かせるには十分だった。
そんな様子を見て萌音は何故か得意気でいる。ランスロットの肩に触れながら、見るからに嬉しそうな様子で語りかけた。
「ふっふふふ、成功だねぇランちゃん。練習した甲斐あったね」
ランスロットは無言でこくりと頷いた。依然頬が紅潮したままで。
「もしかしてだけど萌音、ずっと教えていたのかい?」
私が訊くとまたしても萌音は得意気に胸を張り、
「楽しかったですよ〜。マンツーマンのレッスンは」
などと返した。なるほど、萌音が教えたというのなら納得できなくはない。
「といっても、あたしがしたことなんてランちゃんの発音を聞いて修正するくらいですけど……ふふっ、最初の頃は今よりずっとカタコトで可愛かったんですよ」
「それは……結構見てみたかったな」
純粋な興味を示すと、萌音は徐にスマホを取り出した。
「そういえばぁ、ここに偶然そのときの動画が」
「拝見させてもらおうか」
『あ……シキ!ダメですっ!』
萌音は私の要望に応え、無慈悲にも動画は再生される。察したランスロットは止めに入るが、時すでに遅し。
辿々しい日本語で喋りながら、言葉に詰まるたび羞恥で顔を林檎のように真っ赤に染めて塞ぎ込む。延々とその試行を繰り返すランスロットはとても愛らしかった。
『あああ……だからダメだと言ったのに……』
画面の中とそう変わらない様相になるランスロットを見て、自然と笑みが溢れた。帰ったら抱きしめてあげよう。
「……ねえ、佑李くん。あれって…………」
「ああ。信じ難いけど、多分…………」
未來と兄さんが私の方を見ながら何やら話し合っていたが、どんな内容かまでは聞き取れなかった。
4
「ああ、なるほど。僕の部屋の現住人はランスロットってわけだね……」
帰宅後、ランスロットが兄さんの部屋を使用していることをつい失念していたので、兄さんは元自室の前で大荷物を抱えながら困り果てていた。
リビングからはそのランスロットが未來と萌音とで談笑している声が聞こえる。
「予備の布団ってあったよね?不慮の来客のために」
言われてみれば確かにそんなものもあった。結局その来客が来なかったために、ランスロットが来た時には既に存在すら忘れていたが。
「あったけど、必要ないだろう?私のベッドで寝れば良いさ。一緒に」
「そういうところは相変わらずだね、志季」
それはそうさ。兄さんを世界一愛しているのは私だからね。
「冗談はさておき、少しの間志季の部屋にお邪魔するよ。布団は確か僕の部屋に」
「?……冗談じゃなかったんだけどなぁ」
私の嘆きはいつも通りスルーされて、兄さんはそそくさと荷解きを進めていく。
「そういえば兄さん、英語また上手くなってたね。勉強しなおしたの?」
スマホの充電ケーブルのプラグをコンセントに繋ぎながら兄さんは振り返る。
「職業柄、将来的に海外の配信者の人と関わることにもなるだろうからね。せめて日常会話だけは流暢にしないといけないと思ったんだ。まさか、ここで初めて役立つとは考えもしなかったけどね」
兄さんは現在アカデミー、つまり大手Vtuber事務所の養成所に所属しており、そこを卒業すれば晴れて兄さんもVtuberになれる。
その事務所は海外との関わりも深く、英語圏の国々や韓国にも拠点を置いている。そのため、活動の中で彼らと関わることもしばしばある。
「それにしても、この数ヶ月で志季も大分変わったね」
ケーブルをスマホに繋ぎながら、今度は兄さんが口を開く。
「変わった?私が?」
「うん。こう、雰囲気というか、顔つきというか、何だろうな……」
腕を組んで考えに耽った末に出てきた答えは、
「お姉さんになった、かな」
「おね、ふふっ……なんて?」
その一言に拍子抜けした私はつい吹き出してしまった。
「僕と離れる期間ができたことと、ランスロットっていう不測の来訪者が原因でそうならざるを得なかったんだろうけど、言葉にし難い部分で確かに変化している。もう少しで言語化出来そうなんだけどなぁ」
兄さんは悔しそうに顔を顰める。
お姉さんになった、か。何とも漠然とした例えだ。
妹分のようなランスロットの存在がそうさせていると言うなら、まあ分からないでもないが。
「あの子との生活、引いては僕がいなくなってから苦労してない?」
のっそりと立ち上がり、私の方へ歩み寄る兄さん。
「思っていたほどではないよ。確かにランスロットを不安にさせまいと思って無理したこともあったけど、今ではあの子もここでの生活に慣れてきたからね。寧ろ楽しいかもしれないね」
私の横を通り抜けて部屋を出ようとする兄さんにすかさず私は抱きついた。
「……兄さんがいてくれれば、もっと楽しいのにね」
これは良く言えば弱音、悪く言えば駄々を捏ねているようなものだ。
この願いが叶わなかろうと、兄さんは私の気持ちを理解してくれる。その証拠に兄さんはこうして私をそっと抱きしめて、優しく頭を撫でてくれる。
「はは、やっぱりさっきの言葉は取り消すとしようかな。まだまだ志季も子どもだね」
兄さんは朗らかにはにかんだ。さっきの言葉の意味を少し理解した気がする。
数秒の間、心地よい沈黙が場を支配する。やがて兄さんは私を解放してしまった。
「少し見ない間にまた大きくなったんじゃない?」
「そうかな?」
「目線が少し高くなった気がする」
兄さんの両手が私の頬に触れた。強制的に兄さんと目が合わせられる。
「目に見えるものだけじゃない。確実に、志季には変化が訪れている。これを機にもっと自分主体に生きてみたら?僕のことなんか忘れてさ」
よく兄さんはこういうセリフを言う。その度、心臓にチクリと針を刺されたような感覚になる。
兄さんが私を遠ざけたいのではないだろうか、そんな邪推が脳を覆い尽くしてしてしまう。違うと分かっているのに、思考はどうしても悪い方向に傾こうとする。
けれど、なんとなく今日はその胸の痛みが少し弱い気がした。
「兄さんのことはいつも想っているよ。それはこれからも変わることはない。でも、離れてみる努力もする。だからもし、その時が来たら、沢山褒めて欲しい。この上なく、甘やかして欲しいんだ。良いかな?」
語気が弱い。自信がないと言えばそれまで。そんな私に兄さんは柔和な笑みを浮かべた。
「それが聞けただけでも十分だよ」
そのまま顔を近づけて、私の右頬にそっと口付けした。一瞬何が起きたか分からず意識が抜けかけたが、直後事を理解して一気に頭が沸騰した。
「まったく……兄さんは本当に私を喜ばせるのが得意だね」
「お褒めに預かり光栄です、お嬢様」
ボウ・アンド・スクレイプの形で兄さんは一礼して見せた。
「さあ、ご飯にしよう。今晩は僕が作るよ。何かリクエストはーーやあ、ランスロット」
リビングの方へ歩きながら兄さんはランスロットとすれ違い様に声をかけ、彼女は首だけ傾けて軽く礼をした。
やがて兄さんがキッチンに向かうと、タイミングを見計らっていたようにランスロットが入れ違いにそそくさと私の元へ早足で駆け寄った。
『あ、あの……』
何か言いたいようだが、どうにも歯切れが悪い。
『もしかしなくても、私と兄さんの仲が気になるのかい?』
だからその気持ちを代弁してあげた。するとランスロットはほのかに頬を朱に染めながら一つ頷いた。
『はい。正直に言って、恋人のそれとそう変わらないなと思いまして……。本当に実の兄妹なのですか?』
確かにあの一連のやり取りを、会話を抜きにして見るとそう思われても不思議ではない。
『実の、ではないかな。便宜上私は養子でね。母親が違うんだよ。話せば長くなるけど、私の生みの母さんはもう何年も前に他界しているんだよ。父さんも家を空けることが多いから言ってしまえば、私は本来余所者なんだよ。でも兄さん達は受け入れてくれた』
『けど、そうだったとしてもスキンシップがやや激しいような気がします』
『え?兄妹って普通それくらいのものだろう?それとも、生きてきた時代のせいかな』
事実、私の中では本気で常識だと思っているが、ランスロットはどうにも受け入れ難いようだった。
『時代は関係ないような気がしますが……私だって、弟とあそこまで熱い触れ合い方はしたことはありません』
『そうか……けどまあ、境遇の特殊性から言えばある意味そうなり得てもおかしくないと思う。多分』
完全に血の繋がりがある訳ではないから遠慮なく恋人のように接せると考えると……いや、やはりおかしいのか?
私にとっては最早どうでも良い。今の幸せな関係が続くのならそれで良い。
その夜は兄さん謹製の麻婆豆腐を頂いた。私と兄さんは慣れていたが、何故か未だ帰宅せずにいた未來と萌音、そしてランスロットはその辛さに悶えていた。ランスロットは良いとして、君たち少し図々しすぎはしないかい?
涙目になったり、水を求めたり、顔を仰いだりと三者三様な反応を見るのを楽しみながら、私は兄さんと進路に関する話をしていた。
「大学はどこにするの?」
「東大。兄さんと一緒に住みたいからね」
「易々と言い切ってしまえるの、つくづく凄いと思うよ。まあでも、予想通りではあった」
すでに完食している皿とレンゲがコツンと小さく虚しい音を響かせる。その動作主である兄さんは一瞬名残惜しそうな表情になった。
「……これは飽くまで提案の一つだと捉えて欲しいんだけど」
不意に兄さんの表情が真剣なものに切り替わる。この顔を見るのは実に二年ぶりだ。
「オックスフォード大、受けてみない?」
その提案は私の思考に波紋をもたらすには十分すぎた。それが幸か不幸かはまだ分からない。
5
『熱い……死ぬ……』
『もう、全く優雅さが感じられませんわ。こういう時こそ……確かに否定できませんわね』
少女たちは茹だるような暑さに絶望していた。渡航にこそ成功したものの、その目的地は想像を絶するような環境だった。
『文句を言ったところで解決はしない。分かったら手を動かせ』
路地の奥で青年は虚空をーー否、虚空に浮かばせた魔法陣を操作していた。
『さっきから、貴方は何をしているんですの?』
金髪の少女が不満気に口を開く。
『現在位置の割り出しを……待て、これは一体どういうことだ?』
疑問を漏らした青年に、薄紫色の少女が近寄り、魔法陣を覗き見る。
『……急接近してるね。どうする?』
『決まっているだろう。ここで迎え打つ』
◯家族愛の証明
約二週間後、夏休みの始まりとおよそ同時くらいに私と兄さんとランスロット、加えて未來と萌音は東京へ向かうことになった。
東京の大学を見に行くという名目だが、実際のところ観光に他ならない。私としては兄さんの現住居に停泊できるのならそれでいい。
そしてついさっき、東京行きの新幹線を下車したところだ。ランスロットは終始その速さにビクビクしていた。
「ようこそ東京へ。まずは僕の家まで行こうか」
最初に感じたのは熱気。地元と違う、文字通り重苦しい空気が熱を籠もらせているのがよく分かった。原因は恐らく排気ガスだろうが、間違いなく熱帯夜になることを考えると空調が必須になる。そして排気ガスが……この負のスパイラルのせいで温暖化が進行するのだろう。
何より人が多い。下手したらすぐにみんなと逸れてしまいそうだ。見失わないように気をつけよう。
都外の人からすると東京は遊びに行くための場所として認知されており、住む場所ではないと言われることがある。私も正直なところ、この意見には賛成だ。とても住もうとは思えない。
電車を乗り換えて揺られること数駅、目的の駅に辿り着く。そこから更に数分歩き、比較的新しいアパートに到着した。アルミ製の階段を登り、兄さんが202号室の扉の鍵を開ける。
2LDKの室内はかなり広く、たかだか五人程度なら悠に泊まれそうだった。もちろん私は入室して早々に兄さんの部屋に荷物を置いた。
「さあみんな、どこか行きたいところはあるかい?」
兄さんの問いかけに他四人が反応する。
因みにランスロットは日常で使うヒアリングだけなら九割方マスターしたので、今の兄さんの発言もしっかりと理解できている。再三思うが、学習能力の高さには毎度舌を巻く。
「はいはい!あたしあそこ行きたいです!秋葉原!」
「萌音ってオタク趣味あったっけ?」
「いや、メイドカフェ行ってみたいです!」
「なるほど、却下。他には?」
元気よく手を挙げた萌音の意見は軽々と棄却された。次いでランスロットの手が上がる。
『シキが前に言っていた、とう……だい?というところに行ってみたいです』
「東大か……明日以降ならありだね。知り合いもいるから案内してくれるかも。後で聞いてみるよ。他には?」
私と未來からはまだ意見がない。と思えば数秒して、私の中で一つアイデアが浮かんだ。
「どこかで夜ご飯にしない?なんだかんだで空腹なんだ」
「私も賛成」
未來も丁度同じことを考えていたようだ。珍しく賛同してくれた。
「いい時間だし、そうしようか」
兄さんの賛成も得られたということで、私たちは近くの飲食店に向かうことになった。
1
日が傾き始めてきたころ、私たちはとある路地裏の店に訪れた。聞くところによるともんじゃ焼きで有名らしい。
確かに言われてみれば、江戸っ子がどうたらでかつて流行っていたような覚えもある。
そうして心行くまでもんじゃを堪能した後、それぞれ自由行動となった。早速私はランスロットを連れて駅ビルの方へと足を運んだ。服屋やら食品店がまばらに設えてあるが、特に目につく場所も無かったので適当な服屋に入店する。
当てもなく服を物色しながら、ワンピースに見惚れているランスロットに声を掛けた。
『欲しいのかい?』
『……!い、いえ、そういうわけではないのです。貴族の方々が着用していたドレスと似ていると思っていただけですので、お気になさらず』
早口で捲し立てるランスロットが可笑しくて、つい私は笑みを漏らした。
『ふふ、遠慮することはないんだよ。過去で苦労した分、ここではワガママになったところでバチは当たらないさ。謙虚すぎも体に毒だ』
『けど……』
物欲しさと申し訳無さが鬩ぎ合って、ランスロットはよく分からない表情になっている。
『あ、そ、そう言えば、ここに来るまでにカフェがありましたね!そちらに行きましょう』
話題の変換という強硬手段でランスロットはこの場を切り抜けてしまった。
ランスロットに案内されるまま歩いて行くと駅ビル一階部分に併設されているカフェがあったので、二人揃って入店した。
私はエスプレッソ、ランスロットはアイスカフェラテを注文して席に着く。何を話すでもなく、ただ静寂が流れる。
『……シキは、誰かに恋したことはありますか?』
数分後、ランスロットの方から話題を切り出した。
『物心着いた時から兄さん一筋だよ』
迷うこともなかったので間髪入れずそう返答した。この反応を予想していたかのようにランスロットは微笑みながら頷く。
『私はこれまで一度も恋というものを経験したことがありませんでした。分からなかったと言えばそれまでですが、境遇を客観的に鑑みても知り得ることはなかったと思います。けどここ最近になってようやく、その正体が分かった気がしました』
赤裸々に語るランスロットからは幸せそうな、けど何か物足りなく感じているような印象を受けた。
兄さんも罪な人だ。国籍、引いては時代に関係なく人に恋慕の念を持たせてしまうのだから。
『私は確かに今恋をしている、そうハッキリと言えます。シキ、私はーー』
突如、爆発音が炸裂した。
ランスロットの言葉は遮られ、私たちは同時に窓の外へ目を向ける。
つい最近閉店したらしいビルの最上階付近から火の手と煙幕が広がり、瓦礫が街行く人に降りかかる。幸い負傷者はいなさそうだが、たった一瞬のうちに辺りは悲鳴に包まれた。
ランスロットの方を振り返ろうとすると、そこには既に彼女の姿がなかった。外に出たであろうことを察して私もランスロットを追うべく、会計も忘れて店外へと駆け出した。
「ランスロット!」
姿も見えない少女の名前を叫ぶも、逃げ惑う人々の叫声に虚しく掻き消されていく。
道の真ん中にいると人の波に押しつぶされてしまいそうになるので、端の方へ避難しつつ爆発元である建物を見上げる。そこにはーー
「……あれは!」
ランスロットが建物の間を壁を蹴りながら、およそ飛行しているような状態で登っていく様子が見えた。その右手には邂逅の時に一度だけ目にした剣、アロンダイトが握られていた。
色々な考察が脳裏をよぎる。
爆発犯の確保、炎の鎮火、建物の復元。現実における魔法とやらがどの程度のものなのかは知らないが、時空転移を成功させたアロンダイトでならどれでもおかしくはなかった。
もしかしたら、ランスロットはずっと帰る機会を伺っていた?この爆発は彼女が起こしたものだとしたら?
嫌な方向へと向かう思考を振り払って、私はただ彼女が無事に帰還することを願った。
2
志季たちと別れた後、残った未來、萌音を連れた僕ーー出水佑李は夜景が綺麗に見えるビルの屋上テラスへと足を運んでいたのだが、
「爆発……!?」
見渡す限りのビル群の中で一つ、巨大な硝煙が息吹を上げている様が目に入った。
お互いの行き先を逐一伝え合っていたので、あの近辺に志季たちがいるのは知っていた。安否確認を取るべく、爆発の直後から何度も通話を試みているが、一向に応じる様子はない。
もう何度目も分からないキータッチをしようとした時、不意に萌音が叫ぶ。
「先輩っ!ランちゃんに繋がりました!」
どうやら萌音は萌音で連絡しようとしていたらしい。しかしーー
「ランスロットと?」
ランスロットが先に連絡を取れたとなると今度は志季の安否の程が定かでなくなる。
半ば奪うように萌音からスマホを受け取る。
『ランスロット?聞こえる?』
『ユーリ、貴方ですか。はい、確かに聞こえています』
電話口から耳にしたランスロットの声は、感情を押し殺して無理やり冷静になろうとしているように取れた。
スピーカーホンにして、未來と萌音にも聞こえるようにする。
『何かあったの?志季は?』
『ユーリ……先んじて貴方に謝らせてください。私のせいでこのようなことを招いてしまい、本当に申し訳ありません』
『……一体何のことかな。話が全く見えないよ』
嘘だ。ランスロットの声が涙声になりかけていることから何となく察しはついているが、暗に認めたくない気持ちが滲み出ているだけだろう。
深く息を吸いながら、ランスロットは言葉を続けた。
『ーーシキが、私の身内に攫われました』
耳を疑った。それはきっと、僕の左で目を見開いている未來も同じことだろう。
未來の解説で遅れて理解した萌音は「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
ここでランスロットに声を荒らげるのはお門違いだということを理解しつつ、憤りを無理やり抑えながら僕はランスロットに指示を出した。
『……分かった。一旦この場所で集合しよう。地図を送るから、それに沿ってなるべく早く来て。話はそれからだよ』
『承知しました』
通話を終え、萌音にスマホを返す。
途端、立ち眩みに襲われたが、隣にいた未來が支えてくれた。左手で少し痛む頭を抑えながら、僕は小さく笑みを溢した。
「……はは。人にあれだけ言っておいて、依存していたのは僕も同じじゃないか……。何を偉そうに……」
つい漏れてしまった自分に対する不満は、幸い他の二人には聞こえていなかったらしい。
数分後、待ち合わせの場所であるこのビルの階下の目立たないところに三人揃って待っていると、息を切らせたランスロットがこちらに駆け寄った。
目元が赤く腫れていることから、ついさっきまで泣いていたであろうことは想像に難くない。
僕の前まで来ると、ノータイムで深々と頭を下げた。
『本当にごめんなさい……私が目を離したばかりに』
全速力で走った疲れからか、或いは心からの申し訳なさからなのか、その声音はとても弱々しかった。
『過ぎたことはもう気にしなくていいんだよ。疲れたでしょ?まずは落ちつこう』
出来る限り優しく声を掛けた。するとランスロットは顔を上げてこちらを見据える。
『私を……許してくださるのですか?』
『勿論だ。君は悪くない』
『……失礼を重なるようで申し訳ないのですが、少しだけ……胸を貸して頂けませんか?』
『いいよ。好きなだけどうぞ』
俯きながら、ランスロットは更に僕に近寄る。そんな彼女をそっと抱き締めると、慟哭した。
まるでダムが決壊したかのように、長い間ランスロットの両目から涙が流れ続けた。
どれくらい時間が経ったか分からない頃、ランスロットの嗚咽は聞こえなくなった。同時に彼女を解放すると、恥ずかしそうに口元を右手で覆う。
『……ごめんなさい。こんなはしたない姿を晒してしまって』
『構わないよ。それよりも、これからのことを話そう』
萌音がランスロットの隣に立ち、その背中を優しく摩る。気持ちを切り替えたランスロットが真っ直ぐこちらを見た。
『最初に、シキを連れ去ったのは私と同じ養成所にいた者です。人数は全部で三名、何れも私と同様に魔力を有した剣を所持しています』
『三人もか……』
ランスロットの剣、アロンダイトの脅威はある程度僕らも把握しているので、皆一様に息を呑んでいた。
『ただ、その性能自体はアロンダイトの方がまだ優秀です。それよりも問題は、彼らがタイムリミットを設定していることです』
『タイムリミット?』
未來が反芻すると、ランスロットは小さく頷いた。
『明日の夜明けまでに私が赴かなければ、シキは殺されてしまいます。それまでに然るべき準備をする必要がありますが……正直なところ、私が単独で向かってしまう方が確実でした』
『ちょっと待って。ここまでの流れで、その人たちもまた過去から来たことは分かった。けど、だとしたら彼らは何のために志季を連れ去ったの?』
言い回しに微かな違和感を覚えたので、思わず僕は口を挟んだ。それに対し、ランスロットは一才の逡巡も無しに答える。
『アロンダイトの奪還と、私の殺害です』
その回答はあまりにも殺伐としていた。
『でも、そうだとしたら、どうしてさっきの時点で手を下していなかったの?』
続けて今度は未來が疑問を漏らす。
『きっと、その方が確実だと判断したからだと思います。任務の中で民間人に被害が出ることを望まない、そんな私の性分を理解している彼らはそれを逆手に取りました。交換条件とした方が、交渉は簡単ですから』
『つまりそれは、彼ら三人よりも君の方が強いということ?』
ここまでの会話で感じた疑念をランスロットにぶつけてみる。ランスロットは静かに首肯した。
『はい。単純な腕前でだけなら、幸い私の方が圧倒しています。だから、目下の問題はシキを盾に取られてしまうことです』
なるほど。志季さえ取り戻せば何とでもなる、か。だとしたらーー
『ねぇ、ランスロット。アロンダイトで使える魔法ってどんな物がある?』
『空間把握から身体強化まで、ありとあらゆるものが使えますが、特定の状況下においてはその効果時間は減少してしまいます。例えば、モネに透明化を付与すると、およそ一分程度で効果は即座的に消失してしまいます』
魔法の概要を聞いた僕は顎に手を当てながら静かに笑む。それを見た未來は僕同様にほくそ笑み、萌音とランスロットは首を傾げていた。
『良いこと考えた。続きは歩きながら考えよう。ランスロット、彼らの居場所までの道案内をお願いしても良いかな?』
『は、はい。了解しました』
ランスロットは虚空から派手な意匠の剣を取り出し、それに向かって念じると、赤い宝玉部分が光線を発した。
3
コツコツと、甲高い足音で目が覚めた。
『起きたか』
聞き覚えのない男声の英語が鼓膜を振動させる。視界はまだおぼつかないが、目の前にその声の主がいることは分かった。
目の前の状態がはっきりと見えてくると、段々と自分が置かれている状況も理解出来てくる。
ここはどこかの空き倉庫、それも海に近い場所だろう。鉄臭さと潮風の匂いが鼻腔をくすぐる。
立ちあがろうとして手を地面につこうとするが、自由が効かない。見れば麻縄のようなものでどちらも縛られていた。
目の前に立つ黒髪の青年は跪くようにして私を見下ろす。
段々と思い出してきた。彼の持つ剣の宝玉が光ったと思えば、私は昏倒してしまったのだ。
『ここは……いや、それよりも、私をどうするつもりかな?』
若干掠れた声で彼に質問する。よく見ると、その青年以外にも少女が二人、別途で作業しているのが確認できた。
『俺はガラハット。まずは、いきなり手荒なことをしてしまってすまなかった。無礼を許してほしい』
思っていたよりもこの青年ーーガラハットは謙虚だった。とても誘拐犯のそれとは思えない。それよりも、私が英語を話せることに驚かないことの方が驚きでもある。
『ただ、貴女には協力願いたいんだ。正義の執行の手助けを』
『正義の執行?』
真顔のままガラハットは頷いた。
『貴女よりも少し背の高い、白髪の女を探している』
『ああ、もしかしてランスロットのことかな?』
『なんだ、知り合いだったのか』
『なんなら数週間の間ずっとうちにいたよ。けど……んっ……彼女が一体何をしたって言うんだい?』
なんとか起き上がりながら、私はガラハットの方を向いた。
『簡単な話、姉……あの女は禁忌に触れたんだ。時空転移は使用が認められていない』
『待って……もしや君がランスロットが言っていた弟くん?』
私が訊くとガラハットは小さく舌打ちをし、忌々しげな表情を作る。
『アレを姉と呼びたくはない。あの女は我が国の汚点だ。高貴なる自らの立場を放棄してここへ逃げてきたのだからな』
『……随分な言いようだね。本当に血の繋がった姉弟なのかい?』
『剣を取ったあの日から既に、我々の間に血縁などあって無いようなもの。規則を破ったのが例え姉であれ、俺は赦しはしない』
どうやら、ランスロットが時空転移をするに至ったのはここに原因がありそうだ。
『どうして、ランスロットは時空転移をしたのかな』
『さあな、それも俺には……いや、確か出発前に俺に話しかけて来たな。と言っても、内容は弱音や泣き言。聞くに耐えない内容だったからそれ以降は無視したがな』
『あのねぇ……間違いなくそのせいだよ。ランスロットがルールを破ったの』
ガラハットは眉根を寄せる。
『……何が言いたい?』
『単純な話、聞いた感じだと誰もランスロットに耳を傾けなかったんじゃないかな?次第に孤独になっていった彼女は最終的に未来に身を委ねることにした。違う?』
『はっ……くだらない。そんなことが国を捨てる理由になどなるものか』
『じゃあ訊くけど、ランスロットが養成所に入った理由は何?』
これに関しては本人から一度聞いたことがある。養成所に入れば国から支援してもらえるらしい。貧しかった家を助けるためにランスロットはその決断をしたのだが、
『さあな。考えたことも無い。大した理由もなく、母子家庭で困窮していた家を飛び出した、そんな相手に興味などない』
『なるほど、ここで齟齬が生じているわけだ』
深くため息を吐き、私は言葉を続ける。
『ガラハット、君はランスロットに、お姉さんにどうあって欲しかったの?』
『不思議なことを聞くのだな、貴女は。どうあって欲しい、か…………』
ガラハットは考え込んでしまう。けど、掛け替えのない家族のことを考えるのは大切なことだ。
『きっと、寂しかったんじゃないかな。本当はもっと一緒に居たかったけど、強がりで嫌っているうちにそれが本当になってしまった……例えばの見解だけどね』
『そんなことは……』
『リーダー、敵襲』
薄紫色の髪をした少女ーーガレスというらしいーーが端的に言い放つ。ガラハットは頭を切り替えて、入り口の扉へと目を向けた。代わりに、もう一人の、ウェーブのかかった金髪の少女がこちらへと歩いて来た。右手にはレイピアが握られている。
『くひひっ、ご機嫌よう。良かったですわね、貴女が殺されることはありませんわ』
特殊な笑い方とお嬢様口調が特徴的なこの少女は……モルドレッドだったかな?そう聞こえた気がする。
『それはどうかな?本当のところ、君たちだって私を生かしておくつもりはなかったんじゃない?』
『ふぅん?それが分かっている割には嫌に冷静ですわね。肝がすわっていますこと』
『厳密には、仲間を信頼しているとも言える。私の兄さんとランスロットは凄いからね』
『ランスロットさんは分かりますが……お兄様?随分な信頼ですわね』
どこか恐々とした雑談に興じていると、大きな横開きの扉がゆっくりと開き、人影が一つ現れた。それがアロンダイトを逆手に握ったランスロットであることは早々に分かったが、
「兄さんは……?」
兄さんの姿はそこにはなかった。
『遅かったな』
ガラハットが低い声音でランスロットに語り掛ける。方やランスロットはガラハットに睨めつけられながらも、真顔で平然としている。
『約束通り、私は来ました。シキを解放してください』
『タダでとは行かない。まずはアロンダイトを寄越せ。話はそれからだ』
ガラハットに近づき、アロンダイトを持った右手を前に差し出す。ガラハットがそれを受け取ろうとすると、ランスロットは僅かに手を引っ込める。そのまま静かに視線を自分の右手に移した。
『……何のつもりだ?』
『これまでの私なら……この国の人たちと出会うことがなければ、私は確かに素直にアロンダイトを返還していました。けど……』
一歩下がり、ランスロットは剣を振るう。ガラハットは即座に反応し、自身の剣がで受け身を取りながら後退した。
『っーー!』
『今まで我慢していた分、今日だけは最初で最後の我が儘を通させていただきます』
どこか清々しい表情のランスロットの一太刀をガラハットは受けきれなかったようで、少し隙が生じる。すかさずもう一撃入れようとするが、その前にガレスが長刀をしならせながら強襲し、攻撃は防がれる。
目で追えない程の鍔迫り合いが繰り広げられる中、
「むぐっ……!?」
突然私の口が塞がれる。二歩先にモルドレッドがいるため、確実に彼女ではない。では誰がーー
(志季……僕だ)
そう思っていると、背後から兄さんの囁く声が聞こえた。
(縄を解く。説明は後でするから、彼女の気を引いて)
姿の見えない兄さんに対して頷きながら、私は三名の戦闘に夢中になっているモルドレッドの方を向いた。
『退屈そうだね』
『そう見えますか?くひひっ!違いますわ!私は機を伺っているのです。手負いの相手にとどめを指すことほど気持ちのいいことはそうありませんから!』
『中々良い性格をしているね』
『ふふっ、よく言われますわ』
よく色々な人にそう皮肉を言われるということだろう。尤も、本人にその自覚がなさそうだが。
『そういう貴女こそ、絶望しているのではなくて?』
『どうしてそう思うんだい?』
『どうしてって……頼みの綱であるお兄様はここにはいない。それはつまり……きひひっ!貴女は助からないということでしょう?楽しみですわ!』
醜悪な笑みを浮かべるモルドレッドの姿を見て、私は思わずため息が漏れた。
『君は三つ、思い違いをしているよ』
『はい?』
『第一に、ランスロット一人でも私は助かる可能性は高い。元の実力がどれくらいか知らないけど、この国に関して詳しいのは君たちよりもランスロットだろう。第二に、私は君の望むような反応はしない。本来私はここにいることさえも間違いであるはずだった。けどこうして生きながらえて、楽しい日々を謳歌している。今死ねるのなら、かえって本望だからね。第三にーー兄さんはここに来ているよ』
予想通り、モルドレッドは怪訝気な表情を浮かべる。
『何を言って……っ!まさか!』
いつの間にか縄が解けて立ち上がっている私を見たモルドレッドが、左手に所持していたレイピアを円丈に体の周辺で薙ぐ。手応えこそ無かったが、そのすぐ後に、透明化していたであろう兄さんが姿を現した。
「っと、時間切れだ」
幸い、兄さんは身を逸らして回避していた。それを前にして、モルドレッドは再度笑い出した。
『きひ……くひひっ!つい油断してしまいましたが、もう終わりですわ。生身の貴方に出来ることなど何も残っていないでしょう!』
狂笑を上げながらモルドレッドは一瞬で距離を縮め、兄さんの腹部に鋭く突きを放った。
『あれ?おかしいな』
すんでのところで突きを躱しながら更に距離を詰めた兄さんは、モルドレッドの左手首を掴み、
『さっき油断していたのに、今も油断してるじゃないか』
そのままモルドレッドを投げて、床に拘束した。レイピアの落ちる金属音だけが虚しく響く。
『かはっ……!?』
一瞬のことでモルドレッドは勿論、私でさえも何が起きたのか分からなかった。
『この国には合気道っていう護身術があるんだ。覚えておいて損はないと思うよ』
悔しさを表情に滲ませるモルドレッドに、兄さんは先ほどまで私を縛っていた麻縄を用いて容赦なく無力化して行く。
「兄さん……今のって」
涼しげな表情で一つ息を吐く兄さんに、私はそそくさと駆け寄る。
「ん?ああ。種明かしをするとね、ランスロットに魔法による強化をお願いしてたんだ。透明化は目眩し。ただ身体能力を強化するだけだと効果時間が短いらしいから反射神経に限定してもらって、あとは合気で押さえつければいいかなって」
東京に行ってから合気道を習い始めたとは聞いていたが、ここまで有用だとは思いもしなかった。しかしそんなことよりも、
「……怖かったよ。私よりも兄さんが死ぬ方が嫌なんだ」
涙混じりに私は兄さんを強く抱きしめた。
「心配かけてごめんね。でも、志季のために死ぬ覚悟は僕にだってある。僕もまた、思っていた以上に志季のことを溺愛していたらしくてね」
兄さんはいつも通り……よりかは少し強く、私のことを抱き返した。
「さあ、帰ろうか。あっちもひと段落ついたみたいだからね」
そう言われてランスロットの方を見ると、一つの戦いが終わっていた。ランスロットはランスロットで多少軽い傷は負っているものの、ガラハットとガレスに膝をつかせている様子が見えた。
『……勝負は決しました。大人しく降参しなさい』
敵を見つめるランスロットの目は普段の穏やかな彼女からは想像できないほど冷ややかなものだった。
『くそ……どうして、ここまで……』
ガラハットは苦悶の声に悔しさを滲ませている。
『……貴方達を殺めることはしません。約束通りアロンダイトも手放します。けど、それは貴方達が撤退した後で行います。もう二度と、会うことはないでしょう』
裁定を下しながら、ランスロットはアロンダイトに何かを念じる。すると、ガラハット、ガレス、モルドレッドの剣と体が淡く発光し、やがて消失した。恐らく、過去に送還したのだろう。
『ランスロット……』
顔に疲労を現すランスロットに近寄る。そこでようやく私の存在に気づいたのか、ランスロットはアロンダイトを放り投げて勢いよく私を抱きしめた。
『ごめんなさい、私が未熟なばかりに……けれど、生きてくれてありがとうございます……』
『君の方こそ、無事で良かったよ。私を救ってくれて、本当にありがとう』
少し高い頭をそっと撫でる。嗚咽が聞こえたが、恥ずかしながら私も一緒だった。我慢したくても、堰を切ったように涙がしとど溢れる。そんな様子を兄さんはただ温和な目で見守っていた。
『……そう言えば、言いたいことがありました。弟たちの襲来で邪魔されてしまいましたが』
何かと思えば、カフェでの一件だ。きっと、兄さんに想いを伝えるのだろう。
数時間前と同じく恥ずかしさを孕んだ、それでいて固い決意を持った笑顔でランスロットは私の方を見た。そのまま私の頬から顎に右手を這わせてーー
「……っ!?」
「おお……」
私の唇に柔らかいものが触れた。少し甘く、温かいそれがランスロットの唇であることに一瞬遅れて気づくと、自分の顔が一気に上気していくのを感じた。
時間にして数秒、ランスロットはそっと顔を遠ざけると、私と同じく顔を真っ赤に染めていた。ふと横を見れば、興味深そうな表情な兄さんがいた。
「ははは。ランスロット、随分頑張ったね」
ランスロットは真っ直ぐ私を見据えて言う。
『私は……シキのことが好きです。恋人になって……いただけませんか?』
脳内が真っ白になってキスを受けてから暫く硬直していた私に、兄さんは執拗に追い討ちをかけた。
「だってさ。ランスロットは気持ちを明らかにしてくれたよ。志季はどう応えるの?」
確かに、今日日恋愛の形は様々だ。最早男女の垣根などあってないような物。だから、ランスロットのこの行為も一概におかしいとは言えない。
「……案外、悪くないかも……」
私の返答はかなり曖昧なものだった。
何かを察した兄さんはランスロットに耳打ちする。するとランスロットは嬉しそうに顔を綻ばせた。
これ以来、私の脳の半分をランスロットが占めるようになったのは最早言うまでもない。
◯新しく懐かしい世界
「本当に良かったのかい?」
「ええ。寧ろ、最善の選択肢を取ったと思います」
年を越して、四月。私とランスロットはバッキンガム宮殿を訪れた。
各国には一般に公にしていない秘密が多くある。ことイギリスで言えば、ランスロットの持つアロンダイトがその一つだ。
今回の訪問で行ったのはその返還、及びアロンダイトを利用した時空転移魔法の封印。これにより、ランスロットはもう魔法、引いては過去は帰ることが出来なくなってしまった。なのに、ランスロットは不思議と清々しい顔をしている。
「志季と一緒にいること、それが何よりの私の幸せですから」
「君ってば……よく恥ずかし気もなくそんなことが言えるよね」
ため息が漏れたが、内心嬉しくも感じている。というか、思えば私も兄さんに同じように言っていたような。兄さんもこんな気持ちだったのかな?
「そういえば、君本当に日本語が上手くなったよね」
「それはまぁ、あれだけ長い間日本に滞在していれば、自然と上手くもなりますよ。何より、私にはとても優秀な先生がついているので」
「ふふ、それはどうも」
素直に褒められると、少し照れ臭いものがある。
「そういえばついでに、私の名前の話でもしましょうか」
「名前の話?……ああ、言われてみれば、君はあの日ランスロットと『名乗っている』って言ったね。もしかして……」
「そうです。養成所に入ってから英雄の名前を襲名して、本名は不要になりましたから」
「なるほどね」
私が一人で納得していると、ランスロットが少し不満気に顔をムッとさせる。
「訊いてくれないのですか?」
「ん?ああ、忘れてたよ。それで、本当の名前は?」
「もう教えませんっ。即座に訊いてくれなかった罰です」
「はははっ、ごめんって。今度クレープでも奢ってあげるから」
「……仕方ないですね」
ちょろい。甘いものをチラつかせれば大抵の願いを聞いてくれるのは知っている。
「私の本当の名前はーー」
『テロだ!逃げろ!』
銃声と共にそんな叫び声がこだました。
「やれ、イギリスは物騒だな。さぁ、逃げーーひゃっ!?」
「ここは危険なので遠くに行きましょう」
私をお姫様抱っこしたランスロットがなぜか笑顔で言った。
これからの私達のイギリス生活は大変になりそうだ。