迷子の小狗、義侠の獅子

◯独白

出会って数秒から数分で人の第一印象は決まるらしい

 

印象を決める要因は様々だ

 

例えば身嗜み、身長、体型、姿勢、声音、そしてーー顔

 

俺ーー宍戸亮馬はこの仏頂面でかなり損をしていると思う

 

お陰で思春期以降は恋人は愚か、あまり仲の良い存在などできず、望まぬ寂寥感を強いられていた

 

しかし時間が経てば段々と慣れてくるもので、次第に俺は他人を退けることを覚えた

 

いつからか、俺の心はすっかり冷え切ってしまった

 

そんな中、俺は不思議な出会いを経験した

 

災難や面倒ごとを避けてきた俺は、この出会いを機に仮初の安寧を崩壊させることになる

 

◯小さくて大きないのち

 特に頭が良いわけではなかった俺は、高校卒業後は地元の専門学校に通っていた。家族に迷惑をかけるわけにもいかないので同時に一人暮らしも始めた。

 学校の最寄駅から三駅先ほどのアパートに住んでいるのだが、ご近所付き合いは当然ながら良くない。元々仲良くする気もなかったのだが、見た目が悪いせいで自然と人は遠ざかり、果てはあることないことを噂されるまでになった。

 最近では、駅前で宣伝用のティッシュを配っていたバイトの子に、受け取ろうとしたところで怯えた顔をして逃げられ、運悪く近くにいた警察に職質された。

 この社会の理不尽さには何度も嫌気が刺すが、かと言って両親のことを想うと死ぬ勇気もなくて、仕方なく日々を過ごしている。

 学校にいる間、友人もいないため自席で意味もなくネットサーフィンをしていると、後ろで一軍気取りの女子グループが俺を悪く言う声が聞こえてくる。やれ根暗だのやれヤクザだのと、くだらないと分かっているが癇に障る。

「……陰口なら本人がいないとこでやれよ。気持ち悪りぃ」

 睨みを効かせながらそう言うと、その一団はやや怯えた様子で遠ざかる。そしてその他の傍観者どもの俺を見る視線が悪化する。何もできないくせにこういうところばかりしっかりしていると思うと、やはり馬鹿らしく感じる。

「相変わらずだねぇ、りょーちゃんの嫌われ方」

 正面から不意に女性の、俺を小馬鹿にする声が聞こえた。顔を上げると、やや青みがかった髪を長く伸ばした人が立っていた。

 前言撤回、俺には友人がいないわけではない。目の前にいる美女は唯一中学時代から付き合いのある相手、揺岐伊織だ。

「なんか用か?」

「用がないと話しかけちゃダメなの?」

「いや……そうは言ってねえ」

 思い通りの反応を得られたからか、伊織はニヤニヤと笑っている。

 中学時代から、こいつは俺を揶揄うのが趣味だった。陽キャグループに属して、なんなら高校でもここでもカースト一位の座に常に居座っているくせに俺に絡むから、この場面はよく変な目で見られる。

「ねえねえ今度さ、駅前に新しく出来たカフェ行かない?」

「あー、悪い。その日バイトあるわ」

「まだ日にち言ってないよ?」

「……察してくれよ。俺は行きたくないんだ」

「ふーん、そう」

 見るからに不機嫌な様子で呟き、伊織は別の女子グループに参入した。

 これで良い。あいつは俺と関わるべきではない。

 

   1

 

 駅近くのスーパーで手早く買い物を済ませ、空が暗くならないうちに俺は帰路についた。

 友人のいない俺にとって食は一つの趣味となっていた。かつては料理人を志望していたこともあり、自分で料理を作るのはお手のものとなった。

 この時期は秋刀魚が旬だったため、勢いに任せて六尾も購入したことを少し後悔した。

 現在時刻一八時、家まで残り十分ほどの地点で、顔に水滴が滴るのを感じた。

 すでに涼しい時期であることから汗でないことを察した俺は空を見上げると、家の方面の方の空が真っ黒になり始めていた。

 予想通りすぐに雨足が強くなったので俺は急いで走り始めるが、

「……ん?」

 正面を歩く者に気を取られて、つい足を止めた。

 背丈は1mに満たない満たない程度、白と黒の入り混じった髪は膝丈に達しそうなほど長く、道路で跳ねた雨水で裾が汚れた汚れたペールオレンジのワンピースからは靴の履かれていない足が伸びていた。

 声を掛けようか逡巡したが、自分の見た目を思い返してそのまま横を通り過ぎた。

 五分と経たないうちにアパートまで辿り着いたので、そこまで酷く濡れなかったことに安堵しながら玄関の鍵を開ける。

 パラパラと屋根を打つ雨音と誰が来るでもないのに整頓されているワンルームは温かく俺を歓迎した。

 右手に持っていた買い物袋をキッチンで展開し、冷蔵庫に買ったものを詰めていく。秋刀魚と他一部の食品だけは残して、レジ袋は畳んで引き出しに収納した。

 手早く米を研ぎ、炊飯ジャーにセットして炊飯ボタンを押す。45分と表示されたのを確認してから、鍋に水を溜めて火にかけた。煮立ったところで人参、白菜、豚肉、葱、しめじ、豆腐、少量のすりおろし生姜をこの順番に入れ、最後に味噌を解く。一品目、完成。

 次に、秋刀魚二尾の片面にバツ印の切れ込みを一つずつ入れて塩を振り、グリルを7分にセットするが、

「あ、やべ」

 郵便受けの確認を忘れていたのを思い出し、タイマーをスタートさせてサンダルを履き、玄関を出て階下に下りた。

 降りる途中で201が印字された白い名札のついたポストを見つけると、予想通り八つ折りにされた夕刊が刺さっていた。それを取るべく手を伸ばそうとしたのだが、ポストの奥に小さな人影があるのを確認した。

 空ろな表情で雨雲を眺めるその少女は先ほど帰宅道で追い抜かした人だった。あの大雨の中で歩いていたのが原因だろうが、髪は光を反射して艶めき、ワンピースは体にピッタリと密着していた。それだけなら何も違和感はないのだが、

「……は?」

 俺は目を疑った。何せ少女の頭と臀部から、犬の耳と尻尾と思しきものが生えていたのだから。

 やがてその少女ーー文字通り犬のような少女はこちらの視線に気づくと小さな歩幅でゆっくりと歩み寄り、動揺で立ち竦んでいる俺の元まで来て、こちらの顔を一心不乱に見つめ出した。

 はっきりと開かれた栗色の両目の意味するところは全く分からなかったが、

(ぐぅぅぅぅぅ……)

 少女のお腹からなった間の抜けた音がその答えを示した。気づけばその小さな口の端からは細く涎が垂れていた。

 なるべく威圧的にならないように気を付けながら、俺は遠慮がちに声を掛けた。

「腹……減ってんのか?」

 恐らく、見るからに人外の様相をしたこいつを警察に連れて行ったところでちゃんとした対応をしてもらえるとは思えない。

 俺の返答に少女は目を輝かせてこくこくと頷いた。

 人目につかないうちに少女を招き入れたのだが、

「……くちゅん!」

 雨で濡れて体温が奪われたからか、少女は盛大にくしゃみをした。

 先に風呂に入れさせた方が良さそうだ。幸いまだ調理工程も残っている。

 

   2

 

 キッチンで給湯ボタンを押して、未だ玄関で震えながら佇んでいる少女に声を掛けた。

「風呂、一人で入れるか?」

 小さく頷いたのを確認して、先に取ってきたバスタオルで軽く水滴を拭き取りながら洗面所へと誘導した。

 服を脱ごうとしたところで俺はキッチンに戻り、セットしっぱなしだったグリルを起動し、その間に大根をおろした。

 豆知識だが、大根のおろし方の速さによって味が変化する。速くおろせば辛くなり、遅くおろせば甘くなる。俺は圧倒的に前者派だが、あの子のことを考えて今日は二つとも作ることにした。

 米が炊けるまで、そして秋刀魚が焼き上がるまで残り四分ほどだ。この間に少女が着ていたワンピースの洗濯でもしよう。そう思い、俺は再度洗面所へ戻った。

 物音ひとつしない洗面所の洗濯機の上には先ほど少女が着用していたであろうワンピースが綺麗に畳まれていた。

 見方次第ではこのワンピースは簡素なドレスとも取れて、生地もかなり良いものを使っているのが分かる。

 選択表示が無いかをチェックしようとして服の中を色々と探っていると、不意に何かが落ちる音と右足に何かが当たる感覚を覚えた。足元に目をやると、ご丁寧にポリ袋に入れられた手紙が二通入っていた。

 同時に見つけた選択表示に従って洗濯機を操作しながら、ポリ袋片手にリビングへ移動した。

 適当に床に腰を下ろし、失礼を承知しつつポリ袋を開封して二つの手紙を取り出した。

 どちらも宛名はなかったが、封筒にタイトルが記入されており、一通目には「この子が一人でいるのを見かけた方へ」とあった。自らが該当者であるという自覚を持ちながら、封蝋を切って中を確認した。

[拝啓、我が子を拾ってくださったお優しい方へ

 人見知りなきらいがあります故、きっとその子は自分から何かを言うことをしないでしょうから、代わりに必要となり得る情報を記しておきます。

 名前:竜胆ひな

 年齢:6歳

 誕生日:2/10

 性別:女

 特徴:文字通り犬のような性格で基本的に人に従順で心優しい反面、食欲以外にあまり我欲を示さない。鼻がよく効き、本人の意識の下犬の耳と尻尾は出し入れが可能。また、持病はないが、もし何かしらの疾患を患った場合は対人用の医療機関で問題なし。余程の理由がない限りチョーカーは外させないように。

 その他ご不明な点がございましたら裏面の電話番号までお掛けください。敬具]

 状況が全く飲み込めないまま手紙を裏返すと、確かにそこには11桁の電話番号が記載されていた。最初の三桁を見る限り、携帯電話ではなく固定電話の番号であることがわかる。

 スマホを取り出してその番号に恐る恐る掛けてみるが、

『おかけになった電話番号は電源が切れているか……』

 と、そもそも相手方が応答できる状態ではないことを示していた。

「なんなんだよ……」

 分からないことがあったらかけろと言ったくせに、肝心な時に全く頼りにならない。

 相手が何者なのか探ろうと思い、ダメ元でネットで調べながら、二通目の手紙を見た。タイトルは「通話が繋がらなかった場合に」とある。

 用意の良さに少し驚きながら、俺はまた封蝋を切った。

[いつでも構いませんので、18〜19時の間にひなを連れて以下の場所までお越しください。「副店長」を呼びつけてくだされば真相を教えてくれる筈です]

 下に手描きで描いてあった地図には一つの小さな長方形に斜線が規則的に引かれており、その場所の住所が補足されていた。

 時計を見ると既に19時を越えようとしていたので、訪問は後日することにして、手紙は自室の机の引き出しに入れておいた。

 

   3

 

 気持ちよさそうな表情を浮かべて、少女ーーひなが脱衣所から出てきた。

 流石にあのワンピースを着せるわけにはいかないので、今晩は比較的厚手のTシャツを一枚貸し与えた。

 ひながあがってくるまで時間があったので、隣の個人経営の服屋でサイズが合いそうな下着も買ったが、店主に変な顔をされた時は流石にキレそうになった。

 ひなは俺のことを視認すると両手を膝の前に添えて、

「お風呂……ありがとうございました」

 と丁寧に頭を下げた。自然と尻尾が上に上がる。

 歳に不相応な礼儀正しさにかなり驚いたが、「ああ」と返しながらローテーブルの前に座るよう誘導した。そのテーブルには二人分の食事が用意されている。

 ひなはその前に正座しながら、少し困惑したように俯いている。

「取り敢えず、食おう。冷めたら勿体無い」

 俺は箸を持ち、両手を合わせて「いただきます」と言いながら食事を始めた。やや遅れて、戸惑い混じりにひなも「いただきます」と小さく言った。

 体躯の割に食餌の量が多かったのではないかと少し心配したが、見るからに空腹だったひなが俺と同じくらいのペースで美味しそうに、尻尾を小さく振りながら食べ進めていくのを見て安心した。

 それにしても、随分と綺麗な食べ方だ。特に秋刀魚の食べ方に関しては、骨から身を箸で丁寧に取り外すと言う工程がおよそ完璧に出来ており、余計な小骨が一つもこぼれていない。

 きっと前のひなの保護者の育て方が良かったのだろう。

 やがて二人とも完食し、満足そうにお腹をさすって微笑むひなを見ながら俺は姿勢を正した。

「俺は宍戸亮馬だ。これからどれくらい一緒にいるかは分からないが、よろしく」

 自己紹介がまだだったことを思い出し、改めて今行った。それを受けたひなはいそいそと背筋を伸ばし、

「り、竜胆ひなです。よろしくおねがいします」

 深々と頭を下げた。

「早速で悪いんだが、色々と訊きたいことがある。いいか?」

「はい、大丈夫です」

 了承を得られたので、俺は遠慮なく質問することにした。

「まず、お前の両親、お父さんやお母さんはいないのか?」

 軽めの質問をしようと思ってそう投げかけたが、残念ながらタブーだったらしい。ひなは重い表情で下を向いた。

「お父様は……死んじゃいました。バンって大きい音がしてお父様の部屋に行ったら、胸から赤いのが流れてて……お母様に逃げなさいって言われて、たくさん走っていたら、いつの間にかここにいました……」

 理解できない部分も多いが、思っていた以上に苛烈な背景があったのは想像に難くない。いつの間にか犬耳と尻尾は垂れ下がり、栗色の双眸からはしとしとと涙が流れていた。

 自然と俺はその横へ行き、頭を優しく撫でていた。

「大変だったな。よく頑張った」

 流れで抱き寄せると、ひなは胸に顔を埋めて激しく泣き出した。俺はその小さな背中をさすって、ひなをなぐさめた。

 そのうち泣き声が小さくなったかと思えば、今度はスヤスヤと寝息が聞こえた。

「いや……寝るのかよ」

 子どもだからそういうこともあるか。そう割り切って俺はソファーに寝かせようとしたが、抱えたタイミングで起きてしまった。

「いや起きるのかよ」

 確かに犬や猫は人が近づくと目を開けるほど眠りが浅いが、ひなもその部類だとは思いもしなかった。

「あぅ……ごめんなさい」

「なんで謝るんだ?」

 尻尾を抱えたしおらしい態度をとるひな。

「だって、ご主人様のお洋服をひなの涙で濡らしちゃったから……」

 なるほど、そういう……いや待て、ご主人様?

「今ご主人様って言ったか?」

 聞き間違いだと思い聞き返してみたが、

「ご主人様って言いました……」

 肯定されてしまった。

 かつて実家で柴犬を飼っていたことを思い出した。飯時になれば皿の前で姿勢良く座り、悪いことをしたら上目遣いでこちらを見上げて、待てと言われたら物欲しそうな目で眺めてくるあの姿が、今のひなとぴったり重なった。

 そうか、あの時のあいつも同じ気持ちだったのか。そう思うとどことなくひなに既視感を覚えた。

「ダメ……でしたか?」

 この上なく申し訳なさそうな目を向けられて、寧ろこっちが罪悪感を感じてしまい、

「いや……好きに呼んでくれ」

 最終的に受け入れてしまった。

 ひなはパァっと表情を明るくさせて、耳を立てて尻尾を振りながら俺に飛びついた。

「うおっ!?」

「ご主人様!ご主人様っ!」

 この呼ばれ方にむず痒さを感じるが、嬉しそうに笑う顔を見るとどうでもよく思えた。

 

◯新生活にはトラブルがつきもの

 学校がある手前ひなを家に一人でいさせるのもまずいと思い、苦肉の策で俺はひなを学校へ連れて行くことにした。ありがたいことに、再就職を目的とした社会人向けのカリキュラムもあり、それ用に小さい子を預かる施設が併設されている。

 問題は事前の申請なしに利用できるかどうかだ。流石に公務員ともあろう者が顔で精査する、なんてことはないだろう。……正直に言うと少し不安だ。

「……」

 電車内で正面に座るひながどこか落ち着かない様子で俺の服の裾を右手で摘む。上目遣いでこちらを見上げるそのあどけない表情から感情を汲み取ることはできなかったが、この上ない愛くるしさと郷愁を感じたのは確かだ。

 何があってもこの子を守ろう、そう思いながら俺はひなの頭を撫でた。ひなは気持ち良さそうに目を細めるが、周りの人がこちらに向ける視線は少々痛かった。

 ご機嫌そうに足をパタパタと動かすひなは両手で、その体には少し大きいサイズのトートバッグの紐を握り締めていた。中にはスケッチブックと簡単な筆記用具、昼用の小さな弁当が入っている。

 数分して学校の最寄駅に到着すると、ひなは持っていたバッグを肩に掛けて、逸れないよう俺の右手を両手で握って着いてきた。経験上、これがもし片手だった場合誘拐犯と疑われる場合があるため、無意識とはいえひなはかなりファインプレーをしていた。

 ただ、今度はまた別の意味で視線を感じた。同級生たちが信じられないといった様子でどよめく声が聞こえる。

 なんとなく気恥ずかしさを感じながら、俺はいつもと違うフロアに来た。

 受付のカウンターには五十代ほどに見える老眼鏡をつけた女性が一人、難しそうな顔を浮かべながら旧式のデスクトップを操作していた。しかし、俺らがくるのに気づくとすぐに笑みを湛えてこちらを歓迎した。

「あら、おはようございます、宍戸くん。その子は?」

 事務作業をしているが、この人も歴とした講師の一人だ。前に何かの授業で教わったのを覚えている。因みに、家を出たときからひなには耳と尻尾を隠すように言いつけているため、周りにはただの女の子にしか見えていないはずだ。

「姪です。兄が暫く出張するということで急遽預かることになったんですが……受け入れてもらえるでしょうか?」

「なるほどね、そういうことなら大丈夫よ。この資料に必要事項を書いてくれれば問題ないわ。お嬢ちゃん、お名前言えるかしら?」

 緑色の用紙とペンを俺に渡しながら、笑顔のままひなに応対する先生を見て、口には出さないが年の功だなと思った。

「あ……竜胆ひな、です……」

 人見知りを発動したひなは後半声を小さくしながら、俺の後ろに隠れてしまった。

「ひなちゃんね、よろしく」

 先生はニコリと笑ってひなを歓迎した。

 記入が済んだ用紙を先生に渡して確認作業に入っている間、俺はしゃがんでひなに向き合った。

「これから大体六時間くらい、俺とひなは離れ離れになる。それまでいい子でいられるか?」

「はいっ!」

 ひなは笑顔で元気よく返事をした。

「よし、それでいい。何かあったらこの人、野上先生を頼るんだ。それじゃ、また後でな」

 ひなはぺこりと野上先生に頭を下げる。同じく俺も野上先生の方を向いた。

「本人にはもう伝えてありますが、もし昼過ぎになっても弁当を食べようとしなかったら促してあげてください。あともし体調を崩したらーー」

 言い終わる前に先生は俺の背中を叩いた。

「はっはっは!余程ひなちゃんが心配なのね。任せなさい!あなたに指導できるほど私はこの道のプロなんだから」

 自尊心を剥き出しているように思えるが、実習の時以来俺も俺でこの人の腕は信頼している。

「なら、あとはよろしくお願いします」

 一限が始まる予鈴が鳴ったのを皮切りに、惜しみつつも俺はその場を去った。

 その去り際にひなが不安げにこちらを見ていたので、不器用に笑いながら手を振ると、ひなは明るい笑顔でブンブンと手を振り返した。

 

   1

 

 分かってはいたのだが、少なくとも午前中の授業は全く身が入らなかった。内容を全く覚えていない。

 それもその筈だ。先生に任せたとはいえひなのことが心配なんだ。俺がいないせいで泣いてないか、誰かにいじめられていないか、あるいは予期せず耳と尻尾が出ていないか、考え出したらキリがない。

 そんなわけで悶々としたまま昼休みになった。リュックから弁当袋を取り出そうとすると、誰かの手が先に俺のリュックをに突っ込まれた。

 こういうことをするのはただ一人しかいない。

「伊織、頼むから俺の人生を潰しにかかろうとするのやめてくれ。それしか楽しみがないんだよ」

 俺の反応を受けて、弁当を強奪した伊織は青い髪を揺らして嘲るように笑う。

「可哀想な人〜。だったらその楽しみ、私とシェアしようよ」

「誰が好き好んで自分の喜びを半減させるか」

「あっは!確かに〜」

 カラカラと伊織は無邪気に笑う。その度に周りが変な目で見てくる。

「……取り敢えず場所移すぞ。ここじゃ居心地悪い」

「おお、珍しっ。りょーちゃんからのお誘いだ」

 誘ってはいないが、俺たちは階段を登っていつも通り屋上のベンチに並んで腰掛けた。

 弁当袋から黒い弁当箱を取り出しながら、俺は話を始めた。

「実は今日ばかりは折り入って話があるんだ」

 コンビニで買ったであろうサンドイッチの袋の端を破きながら、伊織はリアクションした。

「何々〜?恋愛相談?私という彼女がいながら〜?」

 伊織がつまらない返しをした瞬間、俺の伊織を見る目は一気に冷めた。

「……お前のこと見損なったわ」

「嘘嘘ごめんごめんって。謝るから、ちゃんと聞くからさ、許して?」

 早口で捲し立てる伊織?そんなに嫌だったのか?今の一言。

「はぁ……まあ、あり得ない話だってのを前提として聞いて欲しいんだが、昨日の夕方うちに突然小さい女の子が来たんだよ」

「ほうほう」

 サンドイッチを喰みながら大人しく話を聞く伊織。

 遂に誘拐したか!?とか囃し立てると思っていたが、それをしなかったことに少し意外さを感じた。まあさっきの方があった手前迂闊に変なツッコミは入れないだろうが。

「そんで、親がいなくて当てもなかったから仕方なく少しの間面倒見ることにしたんだよ」

「お人よしだねぇ。警察とか児童相談所に届け出すとか、そういう考えはなかったの?」

「そうも行かない事情があるんだよ」

 箸で鮭を突っつきながら俺は反論する。

 周りに人がいないのを確認しながら、尚且つ俺は声を潜めた。

「実はその子、人間じゃないんだ」

「人間じゃない?どゆこと?」

「今は隠しているんだけどな……犬の耳と尻尾が生えてるんだ」

「っ……!?」

 予想はしていたが、伊織は明らかに驚いた顔を見せた。が、すぐに笑い出した。

「はははっ!あのりょーちゃんも冗談言うんだねぇ!」

「冗談じゃないんだけどなぁ……。まあ、そんな事情があってうちで預かってるんだよ」

 ふぅん、と伊織は興味があるようなないような、どっちつかずな反応をして、いつの間にか食べおわっていたサンドイッチの袋を丸める。

「まあ、何か困ったことあったら教えてよ。きっとーー力になれるはずだから」

 ニヒルな笑みを浮かべながら伊織は立ち上がり、ひと足先に階下に降りてしまった。

「……いつもなら俺が食べ終わるまでいるのにな」

 取り残された俺は、ひながちゃんと弁当を食べれているか案じながら昼休みが終わるギリギリに漸く昼食を終えた。

 

   2

 

 やっと授業が終わり、俺は足早に朝来たフロアへと駆けて行った。

 カウンターに野上先生がいるのを確認して、声をかけた。

「先生、ひなは無事ですか?」

「あっはは!まるで手術後みたいな反応ね。すこぶる元気よ。今は遊んで疲れて寝ちゃってるけどね。呼んでくるわ」

 少し待っててと言い残して、先生は部屋の奥へと消えて行く。数分して、ややけたたましい足音と共に喜色満面の表情を遠慮なく見せつけるひなが、勢いよく俺に飛びついてきた。

「ご主人様っ!!」

「いっ……!?」

 反動を受け止めきれずに俺は後ろへ倒れ込みかけたが、そんなことはどうでも良い。

(呼び方考えるの忘れてた……)

 今のが誰かに聞こえていたら大惨事だ。これ以上悪評が着いたら本当にもう生活できなくなりかねない。

 少し遅れて野上先生が部屋から顔を出す。

「本当に宍戸君のことが好きなのね。荷物も持たずに飛び出しちゃったわ」

 苦笑まじりに言った野上先生の右手にはひなのトートバッグが握られていた。

「ありがとうございました。それと……明日からもまたお世話になると思います」

 感謝と共に俺は先生に頭を下げた。ひなもそれに倣ってぺこりとお辞儀をする。

 それに対し、野上先生はカラカラと笑った。

「良いのよ。これが仕事なんだから。それよりも、ひなちゃんを元気でいさせることを意識してちょうだい」

 どこまでも子どものことを思う姿勢に尊敬の念を覚えながら、俺は学校をあとにーー

「あ、それと」

 しようとしたのだが、思い出したかのように野上先生がこちらに近づき、耳打ちした。

「『ご主人様』の件はまた明日聞きますからね」

 ……終わった。

 最後に見た野上先生の笑顔が逆に怖かった。

 そのあと電車を降りるまでの記憶がほとんどない。強いていえば、ひながずっと首をかげていたような気がする。

 家の最寄駅で降り、近くのスーパーに寄る。独りじゃない買い物は思いの外楽しいもので、ひなとあれやこれやと話し合いながら、思ったより多くの物を買ってしまった。

 帰り道もまた同じように雑談に興じていたのだが、

「兄ちゃん、ちょっといいかい?」

 不意に男の声で俺を呼ぶ声が聞こえた。

 振り返ると、まさに「そっち側」な風貌の男が二人いた。

 方やオールバックの黒髪に黒い革手袋、サラリーマン顔負けのぴっちりとしたスーツ姿。顔は真一文字に結ばれた冷淡な表情でいる。方や坊主頭とサングラスに、派手な柄のシャツのボタンを全部外して挑発的な笑みを浮かべている。恐らく俺を呼んだのはこちらの男だ。

「……何か?」

 目的を察せないでいると、ハゲ頭の男が言葉を続ける。

「簡潔に言うとな、その女の子。こっちに渡してくれないか?素直に渡してくれたら……痛い目は見せないからさ」

 どうやら、ひなは彼らにとってかなり重要な存在らしい。ただ、その目的が未だよく分からない。

 同じく困惑しているひなにしゃがんで向き合って、俺はその両手を取った。

「これから少し、この人たちと話をしなきゃいけないんだ。だから、なるべく目立たないように気をつけながら、全速力で走って先に帰って欲しい。分かったか?」

 俺から家の鍵を受け取ったひなはコクコクと頷き、不意に犬の耳と尻尾を出した方思えば、颯の如くとても人間には出せないスピードで走り去っていった。

「悪いけど……子どもに危害を加える奴は好きじゃないんでね」

 睨みを効かせると、ハゲの方は少し怯みながらも口を開いた。

「てめぇ……遺言はそれで良いか?」

 吐かれたのは取るに足らない捨て台詞だった。

 応えないままでいると、突然ハゲが飛び掛かってきた。その動きを冷静に見切って、左手で鳩尾に掌底を放った。

「かはっ……!」

 苦悶の声を上げながら、ハゲ男は地に倒れ伏した。

 もう一人のオールバックの方に目を向けたが、未だ動く様子はない。

「あんたは?闘わないのか?」

 この問いに男は真顔のまま首を横に振った。

「私は、物事をきちんと考えられるタイプなので。見たところ状況は何も問題は無い、それどころか最適かも知れないですから。それにーー」

 何の話をしているのか分からないままでいるのをさておかれながら、オールバックの男は気絶したハゲを片手で担いで続ける。

「きっと私も、あなたには負けるでしょうから。そうすれば、このバカを運ぶ人がいなくなってしまう」

 そう言ってその男は背を向けて帰って行った。

「何だったんだ、一体……」

 ひなに関する謎が深まる中、俺は手紙のことを思い出し、偶然近くの公園に設置されていた時計に目を向けた。長針も短針も共に4と5の間を指していた。

 

   3

 

「……!お帰りなさい!」

 家に帰るとすぐに、耳を立てて尻尾を振る満天の笑顔のひなが俺を出迎えてくれた。

「ただいま。けど、これからまた出かけるぞ」

 出かけるというワードに寂しそうに眉を八の字にするひなだが、お前も一緒だと伝えるとたちまち明るい表情に戻った。

 18時を示す町内放送による音楽が響くのを聴きながら、俺たちはまた外に出た。

 夜になって冷え込む中、繋いだ手でお互いの温もりを確かめ合うこの姿はまさに仲睦まじい親子そのもの……と、思われていて欲しい。

 出発から十分としないうちに、地図で指定された場所へと辿り着いたのだが……

「古本屋、か?」

 外が薄暗くなる中でもなお明るいことからようやくまだ営業しているのだと分かるほど、その小ぢんまりとした本屋は寂れきっていた。

 本当にここであっているのかと思いつつも、俺はひなを連れて中へと入って行った。

「おや、いらっしゃいませ」

 店主と思しき年老いた男性がレジから朗らかな顔を覗かせる。他に店員がいる様子もないので、疑念が晴れない中で俺は店主と思しき男性に問いかける。

「あの……『副店長』はいますか?」

 一瞬、ピクリと店主の眉が動くのを俺は見逃さなかった。

 それと同時に、繋いでいた手にのしかかる重みが増したことに気づいた。目をやると、ひながうつらうつらと船を漕いでいた。

 仕方なしに前で抱えてやると、ひなは安心したようにすやすやと小さく寝息を立てて眠り始めた。その光景を見た店主はというと、

「ああ、貴方が例の……暫しお待ちください」

 納得したように店の奥へと消えていった。

 数分後、男を一人伴って出てきた。それは先ほど帰り道で会ったオールバックの男だった。

 彼はこちらを一瞥すると軽く会釈した。反射的に俺もぺこりとお辞儀をして返した。

「後は彼が案内してくれるはずですので、どうぞごゆるりと」

 ひなにとって敵だと思っていた相手がまさか味方かも知れないとは考えもしなかった。

「こちらへ」

 男は俺を先導して退店し、数軒先の一軒家まで案内した。

 鍵を開けて中へ入り、通されたのは十畳以上はあるそこそこ広い和室だった。

 部屋の奥には二人の男が鎮座しており、右後ろで控えているのは俺が殴ったハゲだった。中央には茶色がかった髪をワックスで丁寧に整えた男性が卓袱台越しに目を閉じて正座している。

 オールバックの男はその正面に俺を座らせて、自らは目を閉じている男の左後ろに座った。

 俺は抱えていたひなを床へ下ろし、膝枕の体制にして再度寝かせた。

 やがて中央の男は目を開き、俺を見据える。その右眼には白色しかなかった。

「……初めまして、優しいお方。私は六誠会臨時当主、有馬芳樹と申します。以後、お見知り置きを」

 男、有馬は重みのある声を発して、座したままで深くお辞儀をした。

 六誠会と言えば確かこの街の暴力団組織の一つだ。改めてとんでもない物に触れてしまったような感覚を覚えた。

「あ、どうも。宍戸亮馬です」

 一応俺も自己紹介をしてお辞儀した。

 有馬は厳しい表情を崩さないまま、一つ頷いた。

「先ほどは、うちの舎弟が飛んだ無礼を働いてしまったようで、誠に申し訳ありません」

 今度は三人揃って土下座の姿勢をとった。

「いやいやいや、いいですってそんなの!こっちに怪我とかはないですから」

 顔を上げると、有馬は初めて破顔した。

「寛大な心遣い、感謝いたします」

 なんというか、言動がいちいち大袈裟だ。

 ヤクザが案外親しみやすい存在なのかと思うと調子を崩される気がする。

 不意に、有馬は右手を横に上げる。

「一応紹介しておきます。こちらは瀬戸雅、うちのエース的存在です」

 オールバックの男、雅は真顔のまま礼をした。

 有馬は今度は左手を上げる。

「そしてこちらが……日野智弘。ご存知の通り、バカで無鉄砲です」

 なかなかに散々な言われ方をしたハゲ、智弘はバツの悪そうな顔をしながら渋々お辞儀をした。

「いや、紹介とかは良いんだ、別に。それよりも俺は事情が知りたい。ひながあんたらにとってどういう存在なのかを」

「ええ、丁度それをお話ししようと思っていたところです」

 早々に答えを求めるのは俺の良くない癖だ。

「我々の先代当主、手代木正臣は長年子どもができないことを一つの悩みとして抱えていました。晩婚だったためにその機会は余計に減ってしまい悶々とした日々を送っていた頃に妻、日和から養子を取ることを提案されました。児童相談所や託児施設を巡るうちに出会ったのがその子、ひな様だったということです」

 有馬は俺の脚に安心して頭を預けて眠るひなに視線を向けた。幸せそうに寝息を立てるひなを、有馬はまるで父親のように優しい目で見守っている。

「しかし、昨日悲劇が起こりました。我々はここ最近、竜仙会という別の暴力団と抗争、所謂シマ取りを繰り広げていました。新興組織である竜仙会は我々六誠会を丸ごと傘下に置こうとしているのではないか、我々はそのように考察しております。そうして睨み合いが続く中……当主が暗殺されました」

 これは確かひなに断片的に聞いたのと同じ話だ。

 ひなが眠っていて良かった。もし起きていたらトラウマを掘り起こしていたかも知れない。

「ひな様は我々にとって重要過ぎる存在です。ここで眞子様は一計を案じました。一度自分たちからひな様を別れさせて、ほとぼりが冷めるまでカタギの者に任せてみよう、と。幸い貴方が拾ってくださいました」

 なるほど、雅が意味ありげにああ言ったのはそういう意図があったからか。

 俺が一人で納得していると、有馬は背筋を伸ばした。

「折りいってお願いがあります。どうか、事が済むまでひな様を預かっては頂けないでしょうか?無論、お礼は致します」

 三人はまた頭を下げた。

 正直に言って、内心かなり揺らいでいる。

 方や正体の分からない何者かに狙われる恐怖を抱えつつも、それをどうでも良く思えるほどの幸福感を得られるかも知れない。

 方やこれまで通り誰とも馴れ合うことなく孤独を極め続けることになり、自分の運命は永遠に変えられない。

「……質問がある」

 決めかねた俺は、もう少し情報を得ることにした。

「答えられる範囲でお答えいたします」

「じゃあ遠慮なく。もしその抗争が終わったとして、俺はまたひなに会うことは出来るか?」

「……と、言いますと?」

 有馬は分かりやすく眉根を寄せた。

「たとえ利害が一致したというだけの関係だとしても、共にする時間が長ければ嫌でも情が沸く。面白いことに、今でさえ俺はひなを手放したくないとすら思ってしまっているんだ。時間が経てばよりかけがえのない存在になるのは自明の理だろ?」

「それは……その通りですね」

 有馬は複雑そうに頷く。

「あんたらにも事情があるのは理解しているつもりだ。俺の本当の願いとしては、ひなを引き取りたいと思っているが、そうも言えない。だから、期間が終わった後も定期的に会わせて欲しい。たとえ一炊の夢でも、ひなは俺に希望を、生きる意味を教えてくれたんだ。こいつのために生きたいと、心底思えたんだよ。だから……頼む。礼なんて、それで十分だ」

 有馬たちは驚いていたが、俺も自分自身に心底驚いていた。

 すっかり凍てついた筈の心がひなの優しさに当てられて、知らないうちに絆されていた。

 だからこそこんな短期間でいつの間にか掛け替えのない存在となっていたひなを手放したくない、そう無意識の部分で思ってしまったのかも知れない。

「……分かりました。検討させていただきます」

 有馬の回答は比較的前向きなものだった。

 ひと安心した俺は自分の胸ではなく、ひなの頭を撫でた。

 それによりひなは起きてしまった。

「んぅ……?」

 目の前の光景に見覚えがないようで、眠気まなこをあちらこちらへ向けながら、最終的に俺を視認するとのそのそと這い上り、幸せそうに微笑んで腰に抱きついた。

「……はは、これは余計に返してくれと言い難いですな」

 それを目の当たりにした有馬は苦笑した。

 

   4

 

 時刻は20時を過ぎた頃。流石にこの時間から料理するとなるとひなを寝かせる時間が遅くなってしまうから、仕方なく近所にあるファストフード店に寄ることにした。

 有馬の命令で俺たちを見送るように頼まれた雅も成り行きで何故か同伴しているが、その間で二人と手を繋ぐひなが幸せそうならそれで良いと思った。

「ところで、宍戸さん。あなたは何か格闘技でもやってたんですか?一応素手の戦いでは組員の中でも一日の長がある智弘を一撃で倒すなんてそう出来ないですよ」

 相変わらず真顔のままだが、雅は気さくに俺に話しかけてきた。

「特段大したことは。一応高校の頃まで空手やってて全国止まりだ」

「人はそれを大したことと言いますよ」

 丁度到着したので入店すると、カウンターにいたバイトと思しき人がこの組み合わせを見て少しギョッとして見せた。無理もない。

「なるほど、全国レベルの格闘家ですか」

 雅はメニュー表に目を通し、照り焼きチキンバーガーセットを注文した。

「そんな大仰なもんじゃねぇよ。それに、あんま空手家を格闘家って言うな」

 興味深そうに店内を匂っていたひなを抱え上げると、メニュー表をまじまじと見た後にオーソドックスなハンバーガーを指差した。俺はチーズバーガーセットを頼んだ。

「武道家ってそう言う人多いですよね。私の友人も以前電話で笑いながら同じこと言ってました」

 財布を出そうとしたところで、雅が先にクレジットカードを出してしまったのでお役御免になってしまった。

「因みに、そいつはなんの武道やってるんだ?」

 人目を避けようと思い、二階の席へひなを先頭にして階段を登った。

合気道だそうです」

「……多分幼馴染だな、そいつと俺」

 一番奥の四人席に俺と雅が向かい合い、左隣にひなが座るという不思議な構造が出来上がった。

「世界は狭いものですね。ちなみにいつからのお知り合いで?」

「三歳だかのころにあっちがうちの隣に引っ越してきてから、高校で別れるまでだな。そっちは?」

「私は高校で一緒になりました。無愛想な態度を取っていた私に何度も声をかけて関わろうとする、掴みどころはないけど良い人でした」

 俺の記憶の人物と雅が言う人物が一致している場合、雅はかなり偏差値の高い高校に行っていたことになる。勉強ができたのならなぜ極道の道を進んだのかとふと疑問に思っていると、店員が何とも言えない顔をして注文した品を乗せたバスケットを運んで来た。

 目を光らせるひなの前にバスケットが置かれると、雅は手際よくそれぞれが頼んだ品を俺とひなの前に配った。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 雅は瞑目しながら頷いた。

 そして三人揃って、いただきますと言いながら手を合わせる。

 俺と雅は特段何を話すでもなく食べ始めるが、ひなはハンバーガーの包みを前にあたふたしてた。

「開け方、分からないのか?」

 もしかしてと思い聞いてみると、ひなは恥ずかしそうにこくこくと頷いた。

 包みを裏返して一つずつ教えるとひなはすぐに実行し、やがて展開すると忽ち表情が明るくなった。

「できました!」

「よく出来た。偉いぞ」

 頭を撫でてやると、嬉しそうに微笑みながらハンバーガーにかぶりついた。

「面倒見良いですね。下に弟妹でもいました?」

 ポテトに伸びていた俺の手が、雅の何気ない質問を受けて止まった。

「……ああ」

 俺はぶっきらぼうにそう答えた。いや、そう答えることしか出来なかった。

 何を思ったか、雅は数秒俺を見つめた後、そうですかと無感情に言った。

「……」

 いやにひなが静かだと思ったら、いつの間にか包みの中が空になっていた。口が小さく開けっぱなしになっているその顔の先には俺のポテトがあった。

「……欲しいのか?」

 訊くとハッとして首を横に振って雅の方へプイッと顔を逸らすが、残念ながら雅もポテトを頼んでいたため、食欲で満ちた視線は逃せなかった。

「それっ」

 真顔のまま雅はひなの口にポテトを突っ込んだ。

「!?」

 ひなは一瞬パニックになったように目を白黒させていたが、舌に塩味を感じると少しずつそれを咀嚼して、飲み込むと幸せそうに目を細めた。

 突拍子な行為に、正直言って俺も唖然とした。元ボスの娘ともあろう存在にこんなにも無礼極まりないことをするとは思いもしなかった。結果的にひなが満足ならそれで良いが。

「あうう……」

 欲に負けたことに罪悪感を持ったのか、半泣きの視線を俺に向けてくるひな。

「美味かったか?」

 悪戯っぽく感想を促してみると、

「……はい」

 ひなは俯いて答えた。

 あまりの素直さについ頬が緩んでしまう。

「……なるほど、なるほど」

 俺たちに聞こえないくらいの声で雅は呟いた。

 

◯不必要な暴露

 最初はどうなることかと不安でならなかったが、一週間も経てば案外慣れるもので、俺はひなとの共同生活を楽しんでいた。

「食うか?熱いぞ」

 ある日の夜、唐揚げを揚げていた俺は隣でくりくりとした双眸で物欲しそうに中華鍋を一心に見つめるひなに、丁度揚がったばかりの唐揚げを見せつける。

 菜箸で摘まれた、ひなの口には少し大きいサイズのそれを目にしたひなは我慢出来なかったのだろう。尻尾を振りながら背伸びをしてかぶりつくと、ザクッという小気味のいい音がなった。

 だが、ここでひなは気づいたはずだ。

「あふっ、はふっ!」

 衣に閉じ込められていた、油で高音に熱された肉汁が舌の上で一気に飛び出したのだろう。若干涙目になりながら、何度か小さく飛び跳ねてひなは悶絶して見せる。

「だから熱いって言ったろ?」

 悪く笑いながら言う俺だが、こうなることを先んじて予測していた上の行為であることを思うと申し訳なさも少し感じていた。

 やがて咀嚼して飲み込むと、ひなはふうっと息を吐いた。

「どうだ?美味かったか?」

 冷蔵庫から取り出した水をグラスに注いでひなに手渡すと、ひなは勢いよくそれを飲み干した。

「おいしいけど、あつかったです……やけどしちゃいました」

 犬耳をしゅんとしならせてべーっと出された舌を見ると、一部分の赤みがほんのり増していた。

「それは……申し訳ない」

 罪悪感がより一層増してしまった。

 不意に玄関からインターホンが鳴り、ひなは犬耳をピンと立てて反応した。カウンターのデジタル時計を見ると、19:00と表示されている。

「多分雅だ。ひな、ちょっと応対頼む」

 ひなはこくりと頷き、玄関ポーチへパタパタと足早に歩いて行く。その間俺は火を止めて、網じゃくしで唐揚げを大皿に積み上げた。

「お邪魔します」

 解鍵音、扉の開閉、遅れて礼儀正しい挨拶が聞こえて、ひなに先導された雅が姿を現す。オールバックにスーツ姿は相変わらずだ。

「マジで時間ピッタリだな、いつもいつも」

「そちらの予定を乱すわけには行きませんから」

 外で見かけたことはないが、陰ながら俺らの護衛をしているらしい。

 そのお礼と言っては少しおかしいが、夜はこうして食客としてうちに訪れる。毎度食事代として千円札を置いていかれることにはなんとなく申し訳なさを感じる。

「今日は……唐揚げですか。良いですね」

「ひなが意外と肉好きだって知ったからな。普通に成人男性くらいの量食うから多めに作ってある」

 何度かこうして雅と会話しているうちに、雅が悪いやつではないどころか、ヤクザなのが不思議なくらいの優しさを感じていることに疑問を禁じ得ない。

「運びましょうか?」

「ああ、よろしく頼む」

 唐揚げの大皿、人数分の白米と味噌汁の乗ったトレーを雅は片手で食卓へと運ぶのを見ながら、俺はレタスを千切った。

 先に席についている二人は何やら談笑しているようだ。何の話をしていたのかは後でひなにでも訊こう。

 一口サイズに整えたレタスを皿に綺麗に盛り付けて、俺も食卓に着き、三人で手を揃える。

「「「いただきます」」」

 向かって右に座る早々にひなは唐揚げに端を伸ばした。先ほどの反省を活かし、口の前でフーフーと唐揚げを冷ましてから齧り付くと、ひなは幸せを顔いっぱいに広げて尻尾をブンブンと振った。

 反対側を見ると、お椀を口に当てて味噌汁を啜った雅が「おお」とリアクションしている。それが意味するところを俺は理解しきれなかったが、プラスであればいい。

 俺も唐揚げを一つ白米に乗せ、一口で放り込む。噛み締めるごとに溢れる肉汁は既に火傷するほどの熱さは失っており、ジューシーな風味が口いっぱいに広がった。我ながら良い出来だ。

「この味、懐かしく感じます」

 唐揚げを口にした雅が感想を呟く。

「どこかで食べたことあったのか?」

 真顔のまま雅は頷いた。

「かつて母が作ってくれたものと似ています」

「意外と親孝行者なんだな。ヤクザになったことは何も言わなかったのか?」

「ええ。私が中学の頃に自殺したので」

 食事の場にあまりにも似つかわしくない話題に、俺は凍りついた。ひなは意味が理解できないと言わんばかりに首を傾げている。

「……それ、聞いて大丈夫だったか?」

「もうあまり気にしていない上に、所詮は過去のことなので。話しましょうか?」

 食事に夢中なひなの反応を見る限りでは続けても問題は無さそうだが、重いであろう過去を受け止めることと俺の食指が進むかどうかが心配ではあった。

 最終的には好奇心が勝った。

「……聞かせてくれ」

「承知しました」

 どこから話すべきか少し考えた後、雅は語りを始めた。

「私の家庭は世間的に見るとお世辞にも良いとは言えないものでした。他に兄弟はいなかったのですが、ある意味ではそれが今の私を形作っています」

 箸を一度茶碗の上に起き、雅は腕を組んで瞑目した。

「そこそこの大企業に身を置き、人並み以上の稼ぎがあった父は外面が良く、他者の目には良き父親として見られていました。……家庭内暴力さえなければ、本当に良い父親だったのですがね。母にも私にも服に見えないようなところにあざをつけ、毎日のように罵詈雑言を浴びせ、稼ぎの多くは酒とギャンブルに消えました」

 感情の読めないその真顔からは、どこか哀愁に似たようなものを感じた。

「何度かそれを外に訴えたことがあったのですが、父についていた印象のせいで信じてもらえず、次第に私たちは諦めることを強いられました。そんなある日のことです。父の浮気が発覚しました。これに母は激しくショックを受け、浮気の証拠の写真を見つけてから四日後に首を吊りました。その光景を目にした私は、頭の中で何かが切れるのを感じました」

 思っていた以上に壮絶な過去に俺は言葉を失ったが、それよりもその内容をあまりにも淡々と語れる雅に恐ろしさすら感じていた。

「帰宅した父にそれを問い詰めましたが、逆上した父はそれまでで一番激しく私を痛めつけました。彼にとって家庭とはその程度のものだった。そうはっきりと認識した私は同日の夜、包丁を用いてで父を殺めました。自分の犯した罪を頭の中で反芻しながら、返り血を浴びた服のまま夜道を歩いていたところを運良く有馬さんに拾ってもらい、引き取って貰えました。中学の途中から高校卒業まで、有馬さんは本当の父のように私を育ててくれました」

 なんとなく、今の雅がどうしてこうなったのかが理解できた気がする。同時に、ヤクザがどういう組織なのかを垣間見たような気もした。

「有馬さんへの恩返し、というのも性に合いませんが、光の裏側で猛威を振るっている影を打破すべくして私は極道として生きることを決めました」

「……例え、その選択がいつか自分の身を滅ぼすかも知れないとしても、お前は後悔しないのか?」

 人の生き方にとやかく言うのは間違っていると分かっている。けど、だからこそ、間違いだと思わなかったのかを訊いてみたかった。

「……確かに、将来を思うと多少の心配もありました。けど、ある友人の言葉、裏の社会から見る景色もまた面白そうだ、そんな何気ない諧謔的な一言に背中を押されたんです。彼の一つの愉しみとして生きるのもまた面白そうだったので」

 雅の言う友人が誰なのかを考えたが、すぐにあの幼馴染の顔が思い浮かんだ。

「面白そう、な……」

 尤も、同一人物出ない可能性もあるため、わざわざ言うことはしなかったが。

「ごちそうさまでしたっ」

 右側からひなの声が聞こえてふと我に帰ると、20以上の数があったはずの唐揚げがいつの間にか4個まで減っていた。

 語り手の雅と聞き手に徹していた俺は勿論ながらそんなに食べていないので、十数個ほどの唐揚げをひなが全て食べたことになる。

 そんな視線に気づいたのであろうひなが恥ずかしそうに犬耳をしゅんととへたらせて俯く。

「ご、ごめんなさい……おいしくってつい……」

 苦笑しながら、俺は自然とため息が漏れた。

「いらないとは言ったが正直、ひなの食欲を侮ってた」

「今日は多めに置いていきましょうか?」

 雅が内ポケットから長財布を取り出そうとするのはそっと静止した。

 

   1

 

「常時スーツて、今どきのヤクザも案外ステレオタイプな感じなんだねぇ」

 ここ最近は昼休みに伊織とよく話すようになった。自ら望んだとはいえ、やはり今の生活は大変なことも多い。それを誰かに吐き出すことでストレスが緩和されることに無意識ながら気づいたのだ。

「いくらなんでもオフの時くらい私服でいて欲しい。隣を歩く身にもなれってんだ」

 俺の嫌味に対し伊織はくつくつと笑った。

「ところで、りょーちゃんっていっつもお弁当自炊してるの?」

「ああ。なんだかんだ言って買い食いより安上がり……おい、俺の唐揚げ返せ」

 会話の流れでいつの間にか俺の弁当箱から伊織の箸へと唐揚げが一つ移っていた。

「うんまっ!まだあったかいしジューシー!流石だねぇ、りょーちゃん」

「お前……食べ物の恨みは深いぞ?」

 主菜を奪われた苛立ち半分、料理を褒められた嬉しさ半分でなんとも言えない気分になる。

「あははっ!ごめんごめん、お詫びに今晩美味しいお店連れてってあげるからさ」

「……奢りか?」

「もち」

 ぐっ、と左手でサムズアップして見せる。

 俺は少し考えてもう一つ提案した。

「ひなも一緒でいいなら考える」

「やだよぉ、二人っきりがいいよぉ」

「ならこの話は無かったことに」

「嘘嘘。いいよ、ひなちゃんも一緒で」

 よし、これで今日の食費が浮く。どんな店かは知らないが、健啖家のひなの食欲を満たしてくれるならそれでいい。

 俺は心の中でガッツポーズをした。

「……りょーちゃん、なんか変わったね」

 俺の顔を覗き込む伊織が真顔でそう言った。

「変わった?」

「うん。他の女の子たちも言ってたんだけど、丸くなったというか、雰囲気が優しくなったというか、こう……接しやすくなったよね」

 そうだろうか?自分の印象の変化なんて自分に見るものではないので実感はないが。

「……もしそうだとしたら、間違いなくひなのお陰だろうな」

「ふぅん……じゃあさ、りょーちゃんにとってひなちゃんってどんな存在なの?」

「どんな存在、か……」

 兄妹にしては歳が離れすぎている。かと言って居候と家主なんていう薄っぺらい間柄でもない。

 考えているうちに、段々と頭が痛くなってきた。

「家族、だな」

「家族、ねぇ。およそ犬みたいな感じだからてっきりペットかとーー」

「伊織」

 俺は強目の語気で伊織の言葉を遮った。伊織はぴくりと一瞬肩を振るわせる。

「それは、流石にダメだ」

 ひなをペット呼ばわりされたことに苛立ったのもあったが、縦んばそれを冗談と片付けるとしても、これ以上続けられると正気でいられなくなる。

 直感的に感じた俺は、空気が悪くなるだとかそんなことは気にせずに言葉を止めさせた。

「ごめん……流石にタブーだったね」

「良いんだよ、未だに引き摺ってる俺が悪いんだ」

 事情を、俺の過去をよく知っている伊織は、それ以上はもう何も言わなかった。

 

   2

 

 事前に雅にも話をつけ、放課後ひなを迎えに行った後、俺たちは伊織と日没後の街を歩いていた。

「喜べ、ひな。今日はこのお姉ちゃんがひなが大好きな肉を好きなだけ食べさせてくれるぞ」

 冗談半分に言ったが、俺と左手を繋いでいたひなは目を爛々と輝かせて右手を繋ぐ伊織の方を見た。

「あはは……お手柔らかにね?」

 無邪気な視線を浴びた伊織は珍しく怯んでいたが、ひながいる手前俺にあんなことをしたんだ。覚悟しろ。

 かくして辿り着いたのは少し高級な焼き肉チェーン店。しかし……

「てめぇ、計ったな?」

「え〜?何の話ぃ〜?」

 悪戯っぽく笑いながら伊織は何も知らないふりをした。何を隠そう、ここは俺のバイト先だ。

「いや……だからどうってことはねぇけどよ、食卓が絶妙に気まずくなるの嫌なんだよ」

 店員が知り合いで、同行者が女子二人ともなれば後々面倒なことになる。

「だってここ、小学生未満はタダなんだもん。お得でしょ?」

「お前にとっては、な」

 ぶつくさ文句を言いながらも、俺たちは店内へと入った。

 幸い知り合いはおらず、初対面の店員には奥の個室へと案内された。中央にガス式七輪が誂えてある長方形の机が置かれた部屋の下座に俺、俺の隣にひな、その向かいに伊織という形で腰を下ろす。

「りょーちゃん、怖がられなかったね」

「道行く全員が悪い視線向けるわけねぇだろ」

 俺たちのやりとりを聞いていたひなが首を傾げる。

「怖がられるって、どうしてですか?」

 普通なら何気ない質問だが、俺も伊織もキョトンとした表情になった。

「どうしてって……なぁ?」

「うん。ひなちゃんはりょーちゃんのこと、ご主人様と初めて会った時、怖いなーって思わなかったの?」

 伊織が訊くと、ひなはノータイムで首を横に振る。

「はじめてご主人様に会ったとき、ご主人様はとても心配そうなお顔をしてました。おなかが空いていたわたしにごはんを分けてくれました。そんなやさしい人を怖いなんて思いません」

「っ……!」

 ひなはまだ幼い。それ故に人生経験や人間関係にだって疎いから、他の多くの人が言わないようなことを言うこともある。

 だとしても、この一言には心を揺さぶられた。

「へぇ〜、良かったねりょーちゃん。すっごい愛されてるじゃん」

「……ああ」

 分かりやすく言葉に詰まった。感謝、感動、自己否定、言葉ではとても説明しきれない感情の数々で胸が埋め尽くされた。

「ご主人様?」

 ひなが不安そうに俺の顔を見上げる。気づけば俺の目からは涙が溢れていた。

「男泣きとか、らしくないなぁ」

 茶化すように伊織は言う。ひなを左手で抱き寄せながら、

「うるせぇ」

 精一杯の強がりを返したが、照れ隠しにしかなっていない。

 微妙な雰囲気になった個室の空気に耐えかねた俺は、トイレに行くという名目で席を立った。

 

「……ねぇ、ひなちゃん。ご主人様がどうしてみんなに怖がられてるか知ってる?」

 亮馬のいなくなった直後、伊織はひなに話しかけた。

「お顔が怖く見えちゃうから、ですか?」

「せいか〜い」

 伊織は笑顔で小さく手を叩く。

「……でもね、もう少し前まではもっと明るくて、みんなに好かれる人だったんだよ。ある時にあんなことがあったせいで、今みたいな仏頂面で無愛想なりょーちゃんになっちゃったの」

「あんなこと?」

 ひなは当然の疑問を頭に浮かべる。

「実はねーー」

 幸か不幸か、亮馬が帰ってくるまで十分過ぎる時間があった。伊織の口から滔々と語られる出来事はひなの心に大きなショックを与えた。

「そんな……」

「だからね、ひなちゃんには考えてみて欲しいんだ。これからどうするべきなのかを、ね」

 

   3

 

 食事を終えて伊織が会計を済ませている間に外に出ると、ポツポツと雨が降り出していた。

「これは……強くなりそうだな」

 ひなと初めて会った日のことを思い出す。尤も、あの日空を見上げていたのはひなの方だったが。

「お待たせ〜」

 調子のいい声で伊織が店から出てくる。

「じゃ、私こっちだから。またね〜」

 特に漫談することもなく、伊織は手を振りながら足早に駅の方へと去っていった。

「さて、俺らも帰るか……ひな?」

 反応がないのを不審に思い、右下に目線を下ろすと、ひなが下を向いている姿があった。

「ひょっとして、眠いのか?」

 眠くて反応が悪いのかと予想しつつしゃがんでひなの顔を覗き込むが、その表情は悲哀に満ちていた。

「……ご主人様は、妹さんがいたんですね」

「っ!」

 俺は息を詰まらせた。しかし、ひなは哀れみと申し訳なさの入り混じった表情でお構いなしに続ける。

「でも、いなくなっちゃって、その人がわたしと似ていたから、ご主人様はわたしにすごく優しくしてくれて……けれど、妹さんを思い出して苦しくなって……」

 ひなの語る内容には想像や偏見も少なからず混じっている。しかし、これまで目を背けていたものを図らずも曝け出されて、俺は動揺が隠しきれなかった。

「……それ、伊織に聞いたのか?」

 訊くと、ひなは小さく一つ頷いた。

「わたしがいるから、ご主人様はつらい思いをしているんだって言って……本当なんですか?」

 いつしかひなの声は涙で震えていた。

「それは……」

 否定しようと思ったが、思い返せば確かに妹がいた頃と同じように振る舞っていたため、一概に否定出来なかった。

 それを肯定とみなしたのだろう。ひなは俺から一歩、二歩後ろへ後ずさり、

「ごめんなさい、ご主人様……」

 隠していた犬耳と尻尾を出現させ、追いつけないスピードであっという間に走り去ってしまった。

「ひな……!」

 反射的に走り出そうとしたが、胸の中で色々な思いが蟠っているうちに無意識の部分で諦観を覚え、雨足が強くなる中、人目も気にせず俺は地に膝をついた。

「亮馬さん」

 不意に後方から声が聞こえた。

 振り返ると、オールバックにスーツ姿の男、雅が二本の傘を持って立っていた。片方は右手で差し、もう片方は左手で柄の部分を握って持っている。

 雅は左手を俺に突き出して言った。

「風邪、引きますよ」

 声量はいつも通りの筈なのに何故か小さく聞こえて、そこでようやく雨足が強くなっているのに気づいた。

「ああ……悪い」

 うまく働かない思考の中で、俺は傘を受け取る。

「一部始終は何となく聞いていました。取り敢えず追いましょう。車を手配しています」

「追うって、どうやって?場所なんて分かんねぇだろ」

 俺が疑問を呈すると、雅はポケットから徐にスマホを取り出した。

「ひな様の持っていた手紙の一枚目、最後の方にチョーカーを外すなと書いていたのを覚えていますか?」

 そういえば特に触れたこともなかったが、ひなの首には黒いベルトのようなデザインのチョーカーが遇らわれていた。

「ああ、そんなことも書いてあったな」

「あれ、実はもし行方不明になった時用に捜索を容易にするための発信機なんです」

 スパイ映画さながらの品だ。まさか現実にも存在しようとは。

「随分と大仰だな。目を離さなきゃいいだけの話じゃないのか?」

「なら聞きますが、最高時速100kmを越える速度で走るひな様が仮に何かしらの理由で走り去ったとき、貴方には追いつける自信はありますか?」

 尤もすぎて何も言い返せなかった。なるほど、人に犬の身体能力を付加すると余裕で人智を越えるわけだ。

 そう考えると、小さな声で呼んでもちゃんと来るのも、表に出さずとも感情が理解できるのも、或いは優しくて従順なのもよく理解できる。

「分かった。行こう」

 雅は頷いて、俺を車の元まで案内した。

 到着した場所にあったのはいかにもそっちの世界らしい黒塗りの車……ではなく、マルーンカラーの軽自動車だった。

「車は、普通なんだな」

 助手席側から乗りながら呟くと、運転席に座りながらホルダーにナビが表示されたスマホをセットした雅が反応する。

「ええ、まあ。要人と会う際は恐らく貴方のイメージ通りのデザインですが、こちらの方が都合が良いこともあるので」

「都合が良いこと?」

 雅はハンドル右下のボタンを押してエンジンをかけた。

「時に、静脈血の色が何色か知っていますか?」

「静脈血?……あ」

 理由を理解出来てしまったので、敢えて答え合わせはせずに黙った。その反応を見た雅は無言で頷いた。

 車に揺られること数分、対向車線の歩道に白と黒の入り混じった髪の小さな少女を見つけた。

「ひな!」

 反射的に、俺は窓の開いていない車内から名前を叫んだ。

 路肩に停車してもらい、俺は急いでシートベルトを外す。

「ひな!」

 再度少女の名前を叫ぶ。

 隠すことを忘れられた犬耳がその声を捉え、遅れて目線が確かに俺の方へと向く。

「ご主人様!?」

 すぐ近くに横断歩道があったので、ひなは青信号になるのを確認してこちらへと渡って来た。

「ご主人様ぁ!」

 と、その時だった。

 キキィィィッッーー

 激しいスキール音がひなの右側から鳴り響いた。

 猫騙しと同じような原理で、感情の昂りに対して相応の衝撃を加えると、それを被った相手は一瞬気を取られるらしい。

「あ……」

 ひなも今まさにその状態で、自分を撥ね飛ばさんとするトラックの真正面から逃げられないでいた。

 対する俺はその光景を目の当たりにして、反射的に脚に力を込めていた。

 地面を強く踏み締め、横断歩道の中央に佇む少女を強く押し飛ばした。

 次第に視界全体に満遍なく光が満ち、眩しさで何も見えなくなった頃、鈍い音の後に銃声がしたかと思えば、俺の体は宙へ浮いていた。

 数秒後、俺の体は無情にも地面に叩きつけられたが、不思議と痛みは感じなかった。

「ご主人様ぁっ!」

 ひなが駆けてくる。しかし、もう姿がはっきりと見えない。仰向けの視界が朧げになる中、雅らしき人物が相変わらず真顔のままで俺の元へ歩み寄り、ひなの泣き声と、涙で可愛らしい顔をぐしゃぐしゃにしているのを確認した。

「泣く……な…………」

 声にすらならないほど弱々しい音を喉から搾り出し、残り少ない余力を右腕に集中させた。

 ひなの頬まで伸ばそうとして力が尽きかける。だが、その意図を察してか、ひなが両手で俺の腕を取り、涙で湿り切った頬に、もう感覚も残っていない右手を添えた。

「ご主人様……ご主人座ぁ……!」

 相変わらずわんわんと泣いているひなの悲痛な声を最後に、俺の意識は静かに闇へと沈んで行った。

 

◯愛しいあなたのために

 裏社会ではあらゆる所に拠点を構えている。ただ、時に大っぴらにここがアジトですよと言うと不都合な場合もあり、その不都合を隠すために一般人の手の及ばない場所にも彼らのための空間がある。

 街の大病院を訪れた伊織は、自動ドアをくぐると迷いなく待合室の端のエレベーターへ搭乗し、閉ボタンを押し扉が完全に閉まるのを確認して、ロングスカートのポケットから取り出したカードキーをリーダーに触れさせる。

 ピッという小気味の良い音を鳴らして、エレベーターは駆動し始める。体の浮遊感を感じながら、伊織はボタン欄上部の画面を見上げた。階層を示す数字が便宜上の最低階、B1の数字を示してもなおエレベーター止まることはなく、数秒して案内板に存在しないB2を表記して漸く止まった。

 扉が開いてすぐ伊織はエレベーターを降り、一本道の短く薄暗い廊下の右側にずらりと並ぶ重厚感のある扉で閉ざされた四つめのゲートまでツカツカと早足で歩いて行く。

 ゲートの前で先ほどのカードキーをまた取り出してリーダーに読み込ませると、プシーと空気の抜けるような音を発した後で、扉が左へとゆっくりとスライドした。

 四畳半ほどの小さなスペースには簡素な丸椅子と金属製のカプセルが置かれており、心電図の音と灰白色の壁や天井がそれらを寂しく包んでいた。

 椅子に腰を下ろして荷物を床に置くと、伊織は左手をそっとカプセルに乗せて、唯一厚いガラスで透明になっている部分を覗き込む。

「お姉ちゃん……」

 ガラス越しに見えたのは伊織と同じ青みがかった髪を伸ばした女性が目を閉じている様子だ。

 呼びかけても反応しないその人物は伊織の実の姉ーー揺岐眞子で、昨年から脳死により彼岸の狭間を揺蕩っている。

 顔だけが見える窓から足下の方に手を這わせると、カルテのようなものが設えてあった。

[利用期限:10/31

 備考:本人の意向により、契約期間満了後は移植のために臓器の提供を行う。]

 担当医の慧眼で無慈悲にも定められたタイムリミットまでもう数日しかない。

 穴が空くほど目にした文章を前に、伊織は左手を強く握りしめた。

「待っててね、もうすぐだから」

 

   1

 

 惰眠を貪ろうと前日から決めていたのだが、屋根にしきりに打ちつける大粒の雨の音で叩き起こされてしまった。

 視界がまだ少しぼやける中、頭上の目覚まし時計で現在時刻を確認しようとして、気づいた。

(……夢か)

 今しがた俺の寝ていたベッドは一人暮らしの部屋のそれではなく、かつて実家で使っていたものだった。

 俺の意思とは関係なしに体は起き上がり、そのまま階下へと降りて行った。

 ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら新聞を読む母さんを見つけると、母さんは微笑を湛えて振り向いた。

「遅かったわね」

 改めて時計に目をやると、既に一日の半分が終わっていた。

「起きて早々悪いんだけどさ、叶とアキラのこと迎えに行ってくれない?多分、いつものドッグランにいるだろうから」

 スコールの中、およそ600mの距離のある道を傘も無しに帰って来れば風邪を引きかねない。

 俺は文句を言うことなく頷き、着替えた後で傘を二本と愛犬であるアキラ用のレインコートを持って家を出た。

 シーンは切り替わり、ドッグラン。その東屋に一人の少女が長椅子の上で伏せている犬を撫でている光景が目に入った。

「カナ」

 近づいて名前を呼ぶと、少女と犬はほぼ同時に振り向いた。

「遅いぞ兄貴っ!」

 立ち上がった少女、もとい四歳離れた妹である宍戸叶は仁王立ちで俺を出迎える。対照的に、黒と白の柴犬であるアキラは俺に駆け寄ると、嬉しそうにぴょんと飛びついてきた。

「悪い悪い。でもほら、お前の分の傘も持ってきてやったから、これでチャラにしてくんねぇか?」

 大人しく座っているアキラにレインコートを着せながら、俺は叶に水色の傘を手渡した。叶のお気に入りの一本だ。

「むぅ、仕方ないなぁ」

「んー?大雨の中態々傘を持ってきてやったのに掛ける言葉はそれだけかー?」

 意地悪くそう言ってやると、叶はバツの悪そうな顔をして、頭をガシガシと掻きながら吠えた。

「ああもうっ!ありがとうございます!」

「よろしい」

 夢の中の、昔の俺は叶をこうして冷やかすことに一種の悦楽を覚えていた。でも、なんだかんだで仲は良かった。

(ああ……懐かしいな。俺にもこんな時期があったな……)

 口は動かせないから頭の中で呟いた。

「兄貴、今日は何時に起きたの?」

「あー、十二時半」

「おっそ!よくそんな寝れんね」

「中学生さまは小学生のガキと違って忙しいからな。先輩たちが辞めて俺たち中二生がリーダーになってから色々バタバタしてるんだよ」

「でもお隣の佑李くんはこないだのテストで学年一位取った上に、水泳でも県大会行ったんでしょ?兄貴とは大違いだね」

「あいつは……バケモンだからな」

「うわー酷い言い草。後で言いつけてやろー」

「勝手にしとけ」

 他愛もない雑談に花を咲かせているうちに、雨足は段々と強くなり、雷まで降り出す始末となった。

「ちょっと急ぐか。雷に撃たれでもしたら話にならねえ」

 視界も悪くなる中、俺たちは帰路を走り始めた。

 かくして家の近くの横断歩道までたどり着いた頃、

 ビシャァァァッッーー!!

 鋭く、且つ鈍い轟音と共に視界の端が一瞬強くフラッシュした。

「っ!?」

 光源の方に目をやると、数メートル先で街路樹がプスプスと黒い煙を上げていた。恐らく、偶然そこに落雷したのだろう。

 自分たちに被害が無くてよかったと安堵しながら、アキラを連れて先を進む叶が横断歩道に足を踏み入れていたので自分もそれに倣おうとした。その時だった。

 キキィィィッッーー!!

 先ほどの落雷で冷静さを欠いたのだろう。ハンドルを奪われた自動車の運転手が心底慌てた顔をしてスキール音を響かせた。

「カナ!」

 避けるよう促すが、時すでに遅し。

「え……?」

 遅れて反応した叶は車の存在に気付くことなく、アキラと共に十数メートル先へと勢いよく飛ばされた。

「カナぁぁぁっっ!!」

 急いで駆け寄ったが、アキラも叶も大量に出血しており、二人とも既に息をしていなかった。

 地面と強く衝突したことで、無情にも俺の目には深くヒビの入った頭蓋骨が露呈しているのが見えてしまった。同時に、それは叶がもう助からないことを現していた。

 現実で何が起きたのかを少しずつ思い出してきた。叶、アキラと同様俺も事故に遭った身だが、今このトラウマを追想しているということは、俺もまた頭が割れていることを示唆しているのだろうか。

 真実が分からないまま、またシーンが切り替わる。ある広い一室に親戚や仲の良い知人、叶と同じくらいの年齢の子たちが集まって、各々話をしている。しかし、皆一様に黒い服を着て悲しそうな雰囲気を醸し出しているのが印象的だった。

(ここは……火葬場か)

 誰もが凄惨で非情な現実を受け止めきれないまま、胸中を明かしあっている。その中で一人、俺と同じ中学の制服姿の人がこちらへ歩み寄るのが見えた。

「亮馬、少し話さない?」

 隣に住む同級生、尚且つ幼馴染である出水佑李だ。どうやら、家族で葬儀に参加していたらしい。

 特に言葉を返すこともなく、俺は立ち上がって佑李の後をついていった。

 部屋を出て少し、人気はあまりないが大きな窓がある場所へ着いた。

「気分は……良いわけないか」

 悲しそうに笑いながら、佑李は俺に言った。

「理不尽な話だよね。普通に生活していただけなのに、その普通すら急に無くしてしまうんだから」

「……何が言いたいんだよ」

 苛立ち混じりに俺は返答した。

「忘れろとは言わないけど、次に進むんだ。そうしたらまた、大切だって思える人に出逢えるから」

「お前に何が分かるってんだよ!?カナの代わりなんていねぇんだよ!」

 反射的に俺は怒鳴った。それでも、佑李はただ目を閉じるだけだった。

「代わりはいない、それはそうさ。だからこそ、残されたもの、新しく得るものの価値を実感できる。だから、負けないでほしい」

 去り際に見た佑李の顔は慈愛に満ちた笑みだった。

 その時は言葉の意味が理解できず、ただ頽れて慟哭するばかりだったが、今なら分かる。思い返せば、ひなに出会ってから俺は他者の目にも分かるくらい変わった。それはきっとひな本人に絆されたのもあるだろうが、それ以上に、小さくて弱々しい存在を妹のように失いたくないと無意識で思っているからだろう。

 またシーンが変わり、俺は見知らぬ河川敷の傾斜に腰を下ろしていた。

 正面には濃霧で対岸が見えない川が広がっており、上流も下流も限りなく続いている。背後には日常でよく見かける形式の建造物が広がっているが、そのどれにも見覚えは全くない。

 気付けばいつの間にか、俺の姿は事故に遭う直前のそれになっていた。

「こんにちは」

 不意に横から声を掛けられる。見ると、伊織とよく似た特長の、しかし顔立ちは伊織より美人寄りな女性が立っていた。

 この人物が誰なのか分からないまま押し黙っていると、

「隣、良いですか?」

 そう言われたので、およそ反射的に頷いて返した。

「……アンタ、名前は?」

「あー。初対面でいきなりアンタ呼びですかぁ?失望しました。言いませーん」

 ツンとした態度を取りながら、女性は俺の隣にとさりと腰を下ろした。

「なんちゃって。まぁでも、なんでもいいじゃないですか、名前なんて。それとも、お兄さんはティッシュ配りのバイトさんに態々名前訊くんですか?」

「いや……一理あるな」

 一理あるが、なら教えてくれた方が早かっただろう。

「綺麗な場所ですよねぇ。お兄さんは、何しにここに来たんですか?」

 そよ風で髪を揺らしながら、間伸びした声で女性は俺に問う。

「何しに……いや、分からない。気づいたらここにいたんだ」

「ふふ、面白い人ですね」

 口元に手を当て、女性は上品に微笑んだ。

「アンタこそ、何しに来たんだ?」

「うーん……下見?」

「下見?」

「ええ。ワタシ近々この川の反対側に行くみたいなんです」

「そんな他人事みたいな……」

 自分のことなのに妙に他人行儀な姿勢に思わずツッコミを入れてしまった。

「ここ、死んだ人が行き着く場所らしいですよ?」

「三途の川ってことか?だとしたら案外近代的なんだな」

「あっはは!確かに!」

 そして、本当に三途の川だったとすると、俺は現実では死んでいることになる。

「アンタは……死んだのか?」

 死ぬ体験は初めてだったので、つい間の抜けた質問をしてしまったが、案外間違いではなかったらしい。

 女性は無言で着ていた服の首元を引っ張ると、喉から首の後ろまで輪状に赤くなっていた。

「ワタシ、自分で首吊って自殺したんですけど、なんかこの場所だと死んだ時に怪我した部分とか痕になって残るみたいなんですよ。ほら、あの人とか」

 あの人と指差した人は、頭に銃痕が残っていた。

「お兄さんは、なんで亡くなったんですか?」

「ああ、俺は……」

 と言って全身を確認したのだが、そこでやっと自分に傷跡がないことに気づいた。

「ふぅん?死んじゃったのに傷ひとつないですね」

「ああ、何でだろうな……」

 確かにトラックに跳ね飛ばされたから、傷跡は全身にあるはずなのだが。

「ワタシがあっちに行くまでかなり時間ありますし、一緒に歩きましょっか」

 あっち、と言いながら女性は対岸を指差した。

 状況が飲み込めない以上は何をしても無駄だろう。そう思い、俺は女性と共に立ち上がった。

 河のせせらぎに耳を傾けながら、俺は女性と河川敷をゆったりと歩いた。

「自殺って、何かあったのか?」

 普通ならタブーになり得るが、彼女の雰囲気を鑑みるともしかしたら良いのではないかと思い、訊いてしまった。

「うーん、ちょっと胸糞悪い話でよければ。聞きます?」

 彼女の問いに俺は首肯をもって返した。

「自殺する前、去年ぐらいにワタシ結婚式に参加してたんですよ。新婦として。新郎くんはすっごく良い人だったんで、まさに幸せの絶頂でした。けど、お色直しで別室に移動している時に、警備員の人に会ったんですよ。しかもその人、ワタシの元ストーカーだったみたいで。それで、ワタシの格好を見て何を勘違いしたのか、ワタシが彼に気があると思い込んだみたいなんです。それでまあ……襲われたんです」

 その襲われたという言葉の意味するところをなんとなく理解出来てしまった。

「人生最高の日が一瞬で最悪の日になってしまって、襲われたショックと新郎くんへの申し訳なさですっごく絶望して、偶然その倉庫にあったロープでおよそ衝動的に……」

「……こんなことを聞くのも申し訳ない話なんだが、残された家族のことは考えなかったのか?」

 自分のデリカシーのなさに愛想が尽きかけたが、幸い女性は応えてくれた。

「そりゃ勿論、考えましたとも。だから置き手紙に起きた事を詳らかに綴っておきました。ぶっちゃけ、ずっとやりたかった結婚自体は出来たから未練があんまり無くて」

「ならなんで、アンタはまだここにいる」

 そう質問すると、女性は急に真顔になった。

「妹に、生かされてるんですよ。便宜上ワタシは脳死認定されてるらしくて、生きてるけど死んでいる。そんな感じなんです。けど、それもそろそろ終わり。後何日かで漸く解放されるらしいです。『あの世』に行って辛い過去を忘れたかったので、正直言って複雑なんです」

 妹の想いと自分の願望に苛まれた結果今がある、ということだ。

「そういうあなたは、何でまだここにいるんです?」

 今度は俺が質問される番だ。

「……身代わり、だな」

 多くを語る気にはなれなかった。彼女の死に対して、自分は対極すぎたからだ。下手をしたら彼女に恨まれる。

「へぇ、命を懸けてまで守りたい人が居るんですね?」

「ああ、まぁ」

 ふと、女性は足を止めた。

「だったら、引き返してください。あなたはまだこっちに来ちゃダメです」

 俺も同様に止まる。そして女性が指し示した方を見た。

「ほら、あそこ。見えますか?あの光。あっちに帰るべきです。きっと、あそこにあなたを待っている人がいるから」

 根拠のない話だが、何故かそれが真実であると理解できた。

「そう、か。そうだよな」

 俺が誰かを大事に思うように、誰かもまた俺を大事に思っている。漸く分かった俺は、光の方へ駆け出した。が、その直前に女性に振り返った。

「もし対岸に行って、黒い柴犬を連れた女の子に出会ったら、兄貴はもう引き摺らないないって伝えてくれないか?」

 女性はキョトンとしたあと、優しく微笑んだ。

「ええ、必ず」

 小さく手を振って送り出してくれるのを最後に、俺は光に包まれた。

 意識がまた途切れていく中、小さい声で女性が呟くのが聞こえた。

「どうか、妹にもそう教えてあげてください」

 

   2

 

 目を覚ますと、見知らぬ天井が広がっていた。

 左腕は点滴に繋がれており、その隣では心電図が駆動音を鳴らしていた。

 骨折の処置が施されたのか、或いは長いこと寝ていたからなのかは分からないが、身体が思うように動かせなかった。

 唯一動いた首以上を使って辺りを見渡すと、俺の右腕に誰かが上半身だけうつ伏せていた。

「ひ……な…………?」

 なんとか声を絞り出すと、出しっぱなしになっていた犬耳が声を捉えて、ひなは一瞬で意識を覚醒させた。

「ご主人……様?」

 信じられないとばかりに目を見開くひなの目元には、泣き腫らしたであろう跡が残っていた。

 しかし、俺が目覚めたのを皮切りにまた目に涙を溜める。

「あ、ああ……ご主人様ぁ……!」

 尻尾を振りながら俺の胸で遠慮なく泣きじゃくるひなの頭を撫でてやりたかったが、筋肉が少し硬直していて動かせなかった。

「ひな……ナースコール、押してくれるか?……そこのボタン」

 俺の指示の元ひなはベッドの上のボタンを押した。看護師か誰かが来た時に見られないよう、犬耳と尻尾はしまってもらいながら。

 少しして、バタバタと忙しい足音を響かせながら人影が現れた。看護師の誰かかと思ったが、向かい風に靡く青みがかった髪が揺れるのを見て、遅れてそれが伊織だと理解した。

「りょーちゃん!」

 息を切らしながら額に汗を滲ませる伊織の姿が、不思議と夢の中で出会った女性と重なった。

「事故に遭ったって聞いたから急いで来たんだけど、大丈夫?死んでない、よね?」

「お前な……元気そうで、何よりだ」

 少なくとも、この状況下で冗談を言えるくらいの余裕はあるらしい。

 伊織の登場で、顔には出さないもののひなはキラキラとした視線で伊織を歓迎した。

「ちょっと急ぎだから単刀直入に話すね」

 椅子に座って伊織は改まった表情で俺を見据えた。

「りょーちゃんが入院してる間、ひなちゃんのこと私が預かってもいいかな?」

 名前を呼ばれたひなが伊織にキョトンとした顔を向ける。

 ひながここで俺のためだけにただただ時間を浪費することを考えると、伊織の提案は決して悪くない。ただ、自分の元からひながいなくなるのに心配がないわけでもない。

「ひな、お前は……どうしたい?」

 だから、最終判断はひなに委ねることにした。

 一瞬の逡巡の後、ひなは首を前に倒した。

「オッケー、みたいだね。それじゃ、行こっか。ひなちゃん」

 伊織はひなに両手を伸ばした。特に抵抗することなく、ひなはなすがままに伊織に抱きかかえられる。

「じゃ、またね。毎日お見舞いに来るから」

 右手をはためかせながら、伊織とひなはカーテンの袖へと去っていった。

 数秒の沈黙の後、一人の中年医師と共に黒い影が現れた。その黒い影のオールバックと黒い手袋で雅という名前を思い出した。

「ご無事だったようで何よりです。しかし、驚きましたよ。あんな派手に飛んでおきながら反射的に受け身をとった上で脳震盪と打ち身だけで済むなんて」

 驚いたと宣っておきながら、相変わらず雅はいつもの真顔を浮かべている。

 となると、さっき感じた体の動かしにくさは、長いこと寝ていたことからだろう。

「俺、どれくらい意識飛んでたんだ?」

 少しずつ喉の調子も戻ってきた。さっきより喋りやすく感じる。

「そうですね。時間にして一日半ってとこでしょうか。案外早い復活でしたね」

 それでこの身体の固まり具合か。となると年単位で気絶している人は、きっと起きた時二度と動かせないだろうな。

「さて、宍戸さん。彼の言った通りです。午後の検査で正常が確認でき次第、あなたは退院できます。正直言って、回復力が異常ですね。或いは元々体が頑丈なのか……出来ることなら、是非とも深く調べたいところですが……」

 カルテを持った医師のにこやかな笑顔が俺の所見を話しているうちに段々と悪いものに見えてきた。

「はい。言うべきことが済んだのなら、早々にご退出お願いします」

「ああ、ちょ、まだ話はーー」

 珍しく雑に応対しながら、雅は医師を強制的にフェードアウトさせた。

「あの変人は……なんなんだ?」

 素直に受けた印象を吐露すると、雅はどこか呆れたように答えた。

「人間の限界を超越させるための研究をしまくった結果、腕は立つくせに表立った仕事が出来なくなった闇医者です」

「闇医者……どうりで」

 噂話程度の存在だったヤクザとこんなにも深く関わっている以上、闇医者の一人や二人いたところでもはや不思議には思わない。

「トラックの運転手ですが、ブラック労働を強いられた末に急性心不全を患っていたようです」

「なんで知ってるんだよ、そんなこと」

「しっかり足止めしたので」

 ということは、あの時聞こえた銃声は恐らく雅がトラックのタイヤを撃った音だろう。

「……ところで、ひな様は?」

 周囲を見回していた雅が当然の疑問を俺に投げかけた。

「ああ、さっき見舞いに来た伊織に任せたんだ。なんだかんだで信頼できるからな。ひなも懐いてたから、悪くはしないだろ」

「……そうですか」

 楽観視する俺とは裏腹に、雅は心配そうに目を細めながら顎に手を当てた。

「伊織さんはどうやってここを特定したのでしょうか……」

 俺に聞こえないくらいの声で雅は呟いた。

「え?」

「いえ、こちらの話です。なんでもありません」

 誤魔化すように首を横に振る雅。

 雅の態度に違和感を覚えないでもなかったが、それを考えられるほど頭が動いていなかったので気にしないことにした。

 

   3

 

 全ての検査を終えて病院を出た頃にはもうすっかり日が暮れていた。知らない病院だったこともあり、地図アプリで慣れない道を調べながら帰路についた。

「……こうして一人で帰るのも懐かしいな」

 ひなとの共同生活自体はそこまで長くないはずなのに、空いている右手の物寂しさを感じてならない。仕方なく左手に下げていた鎮痛剤の入った袋を握り締めて歩いたが、やはり虚しい。

「はは……」

 自然と乾いた笑いが漏れた。

 ……笑い?何故俺は今笑ったのだろう。

 数年来体が忘れていた筈の、人間として当然の行為だ。それに関していちいち驚きを感じる必要はない。

 けど、どれだけ嬉しいことがあっても、あの事故の日以来何も思えなかったのに、どうして今になってこんな何気ないことで笑えたのだろうか。

「いや、自明だよな……」

 頭の中に浮かんだのはひなの姿だった。小さくも俺にとっては大きく、か弱いながら強い気持ちを持つあの子に知らず知らずのうちに心を開かれた。

 何度もあの子を守りたいと思えた。それは決して感謝だけではない。これまで蓋をしてきた俺本来の姿を思い出させてくれた。だから笑えたのだろう。

「まあ、理由なんてなんでもいいよな」

 とにかく、今がこの上なく幸せなんだ。それが実感できている以上、他に何も望むことはない。

 柄にもなく幸福を噛み締めているうちに、気づけば家の鍵を開けていた。

「ただいま……って、誰もいないんだった」

 満面の笑みで俺を出迎えるひなの姿を思い出した。そういえば、結局入院はしないことになったから伊織からひなを引き取りに行かなければ。

 思い立った俺はスマホを取り出した。

『入院しないことになったから、今から迎えに行く。ひなは元気か?』

 メッセージを送ったが、いつもなら秒で返信がくるところが、数分経っても音沙汰がなかった。

 疑問を感じながらも、忙しいだけだろうと割り切って俺は冷蔵庫に手を掛けたそのとき、着信音が響いた。

 画面を見ると、相手は雅だったのですぐに応答した。

「どうした?」

『お疲れのところ申し訳ないのですが、五分後に出発できるよう準備をお願いします』

 音声に走行音が混じっているあたり、恐らく雅は車に乗っているのだろう。

「準備って、何かあったのか?手短に頼む」

 一泊間をおいて、雅は言葉を発した。

 

『ーーひな様の発信機に不穏な動きがありました』

 

 シンプルな一言だったが、俺の脳を揺さぶるには十分過ぎた。

「分かった。すぐに準備する」

 

◯失うことで得ること

 数時間前、雅は亮馬の下を離れたひなの身の安全を確保すべく、発信機の情報を手掛かりに伊織を追っていた。

 面識こそないものの、何度か亮馬と共にいるところを見ていたため、見つけるの自体はそう苦労しなかった。しかし、そこでもう一つの問題が生じた。

(あれは……)

 伊織がまるで自宅のようにひなを抱えて入った、看板が設えてある建物。看板には草書体で「竜仙会」と書かれていた。雅の所属する六誠会とまさに睨み合いを続けていた組織だ。

(一民間人ともあろう人が何故ヤクザに?)

 そう疑問を持った雅は、堂々と敵地に足を踏み入れた。

「うおっ!?てめぇ、何の用だ!?」

 気配を消したわけでもないので案の定すぐに見つかるが、雅は構わず淡々と必要なことだけ質問した。

「先ほど、ある女性が女の子を連れてこちらに来たかと思いますが、あの子はどちらへ?願わくば引き取らせていただきたいのですが」

 部屋には二、三人ほどしかいなかったが、皆一様に警戒心を剥き出しにしている。

「言うわけねぇだろ!」

「そうですか。失礼しました」

 一礼して去ろうとする雅。しかし、竜仙会の構成員は彼を逃そうとしなかった。そこにいた全員が銃を雅に突きつけている。

「待てよ。勝手にうちのシマに土足で踏み入っておいてはいさようならとは行かないぜ。ケジメとしてーー」

 言い終わる前に、雅は服の袖からサイレンサーのついた銃を抜き取り、素早く、正確に銃を構えていた構成員らの利き手の肩口を撃ち抜いた。

 何が起きたのか分からないまま、構成員たちは傷口を抑えて床に頽れた。

「……っ!何しやがるっ!」

「急所は外してあるので。ご安心を」

 傷を受けた者たちは颯爽と立ち去ろうとする雅に罵詈雑言の数々を浴びせたが、雅の耳には届いていなかった。

 玄関を出ると遠くに走り去る車が見えたので、雅は発信機のありかを探すが、車の中にあることは明らかだった。

「竜仙会……いや、伊織さんがひな様を狙う理由は……」

 考えど、雅が結論を導き出すことは出来なかった。

 

   1

 

「伊織が……?まさか、そんな……」

 雅の運転する車の助手席に座りながら、彼が経験した全てを聞いた。

 信頼していた人物が敵組織と関わっていたことにショックは隠せなかったが、それ以上にひなの身がどうなるかが不安だった。

「責任を取れ、というわけではないですが、こちらとしても少しでも戦力は確保したいです。良いですね?」

 元はと言えばひなは六誠会から「預かって」いた身である。どれだけ俺が家族のように振る舞っても、本来他人であることに変わりはない。

「分かってる。言われなくてもそのつもりだ」

 けど、それがひなを救わない理由にはならない。例えもう会えなくなるとしても、大切なことを思い出させてくれたあの子を諦めるわけにはいかない。

 発信機に従い閑静な夜道を進むこと数十分、車は人気のない港に到着した。

 下車した場所には既に多くのガラの悪い大人たちが警戒心を剥き出しにして集合しており、皆一様に対岸に睨みを効かせている。

 彼らの視線の先にはやや小型のフェリーとそれに群がるスーツ姿の人たちがいる。そのうち何名かは肩を負傷していたが、何かを搬入しているのは確かだった。

「宍戸さん」

 不意に横から声を掛けられた。振り向くと、そこには有馬ともう一人見知らぬ女性の姿があった。恐らく、この人物が暗殺された元当主の細君である日和という人だろう。

「……申し訳ない。俺の考えが浅かったばかりにひなを危険な目に……」

 俺の言葉に、日和は首を横に振った。

「雅から全てを聞きました。あの状況では仕方がありません。それよりも今は……あの子を連れ戻すことを考えましょう」

 気付けば、先ほどまで散らばっていた六誠会の構成員が有馬の後ろに集まっていた。そのうちの一人が中央に船の案内図と思しきものを広げた。

「では、簡単に説明しましょう。我々の役割は撹乱です。構成員の数はこちらとあまり変わらないので、邪魔にならない場所まで連中を誘導します。程よく敵を散らした後で、宍戸さんの出番です。雅を案内と護衛につけるので、ひな様を救い出してください。詳しいことは雅にお聞きください」

 一通り説明を終えると、構成員は「応っ!」と大きく返事をして各所に走って行った。俺ものんびりと自分の銃を整備している雅の方へ歩み寄る。

「なんというか……現実味がないな」

「何を今更。ひな様の存在を前にしても同じことを言いますか?」

 雅の一言で犬の耳と尻尾を生やして呆然と空を見上げていたひなの姿を思い出した。

 短い付き合いだが、雅にはよく言いくるめられている気がする。事実、言っていることは正論だから何も言い返せない。

「そういえば、ひなってどんな存在なんだ?人間離れしてるのは分かるんだが」

 ピタリと作業の手を止めて、雅は少しの間黙る。やがて小さく頷き、口を開いた。

「……あまり不明瞭な情報を語りたくはないのですが、良いでしょう。貴方の言う通り、ひな様は人間ではありません。誰かの手によって遺伝子操作をされたわけでもなければ、突然変異で生まれたわけでもないらしいです。種族としては狗神と言われています」

「いぬ……がみ?」

 聞き馴染みのない言葉だったのでつい聞き返してしまった。

「亮馬さん、猫又はご存知ですか?」

「聞いたことはある。長生きし過ぎた猫がある日人間みたいに二足歩行して人間みたいに振る舞う、みたいな妖怪だろ?」

「伝承では確かにそうなっていますが、実際には猫又もまたひな様のように人間ベースの体に猫耳と尻尾が生えているそうです」

 なるほど、知らなくても良かった情報だ。

狗神は猫又よりも神聖化されているそうで、その潜在能力の高さと個体数の少なさは圧倒的に優れているとかなんとか。とにかく、存在自体がレアなんです」

「でも、だとしたらなんで奴らはひなを狙うんだ?物珍しいからってだけじゃないのか?」

「それはーー」

 雅の次の言葉が突如響いた喧騒に掻き消された。同時に、俺たちの意識もそっちに向けられる。

「続きは後で話しましょう。今はひな様を救うことだけを考えるべきです」

「そう、みたいだな」

 対岸で人が入り乱れるのを横目に、俺たちもまた別ルートから死地に赴いた。

 

   2

 

 雅が漕ぐボートに揺られること十数分、いつの間にか船首の下に着いていた。フェリーの側面に作られた等間隔の凹凸に手足を掛けて梯子と同じ要領で登っていくと、人一人としていない甲板にたどり着いた。

「恐ろしいくらい静かだな……」

「ちゃんと入口の方にに集まっているみたいですね」

 言いながら、雅は発信機の反応をスマホで追っている。

「位置的に……636号室あたりでしょうか。上手い隠し方ですね」

 周りに敵がいないのを確認しつつ、音を立てないように気を付けながら俺たちは中に入った。

「私が先導しますので、亮馬さんは後ろを見張ってください」

「分かった」

 雅は懐からサイレンサーのついた銃を取り出すと、銃口を各通り道に向けながら歩みを進めた。

 先ほど船内図で確認した情報によると、このフェリーは8階構造になっているらしく、その内4〜6階部分は客室になっている。今は4階から足音が立ちにくく、遮蔽物の多い船内の階段を登っているところだ。

 やがて6階に着いたのだが、

「いますね……」

 階段の影から覗いてみると、スーツ姿の人が二人武器を持って佇んでいた。片方は長身且つ初老の男性だが、屈強そうな見た目をしている上にその手には拳銃が握られている。

「ああ。しかも、片方は伊織だ」

 信じ難いが、青い長髪を頭の後ろで一つに括っている伊織は、腰に日本刀らしきものを佩いていた。

「伊織さんの隣の男は竜仙会の長、揺岐源蔵ですが、どういった関係なのでしょうね」

 雅がふと漏らした疑問を俺も同じように感じたのもあり、一旦二人の会話を聞いてみることにした。

(ここまで来た以上、もう後には引けない。伊織。改めて訊くが、この選択に後悔はないか?)

(今更何を言うかと思えば、そんなこと?もう何回も言ったでしょ。私はお姉ちゃんにまた会うためになんでもするって)

(それが聞けただけでも十分だ。知っての通り、あちらさんも血眼になってあの娘を取り戻そうとしている。伊織……くれぐれも、無事でいろ)

(ここに来て漸く父親面するとか。どうしてその一面をママやお姉ちゃんが生きてる時に見せてくれなかったの?)

 最後の伊織の一言に、雅も俺も目を丸くした。

「あなや。実父だったとは」

「態々聞いたこともないけど、父親が裏社会の人間だったとか聞いたこともないぞ」

「そりゃ、言えるわけもないでしょう」

 冷静にツッコまれた。

(一旦離れる。警戒を怠るなよ)

(……うるさい)

 伊織の父親、もとい源蔵がこちらに背を向けて廊下の奥へと消えて行く。それを確認した雅は俺に耳打ちをしてきた。

「恐らく、我々の陽動に反応してくれたようです。ただ、組織の中では彼が一番の手練れであるとされているので、私が足止めに入ります。幸いこちらに援軍は来ないようですから」

「分かった。なら俺は、ひなを迎えに行けば良いんだな?」

 俺の言葉を受けて、雅は少し目を見開く。やがて頬が緩み、初めて雅は俺の前で笑顔を見せた。

「姫君の救出劇の始まりです、王子様。二度とないこの一夜を愉しみましょう」

 そう言って雅は拳を突き出した。

「良いように纏めんな。……でも、気遣いには感謝する」

 俺も拳を突き出し、雅と合わせる。

 伊織がこちらから視線を逸らした隙に、雅は気配を消しながら廊下の奥へと駆けて行った。違和感を覚えたのか、伊織もそちらに意識を取られるが、続けて俺も階段を登った。

「伊織」

 呼びかけると、伊織は瞬時に振り返って、あり得ないと言わんばかりの表情を浮かべる。

「りょー、ちゃん?」

 動揺の色を示しつつも、その手は腰の刀に添えられている。

「この通り、無事に退院になったんだわ。ひなは?ちゃんと元気でいるんだろうな?」

「なんで……なんで、ここにいるの?」

 いつもの戯けた様子とは一転、今俺を見据える伊織の目線は酷く冷ややかに見える。

「色々とあったんだ。そっちは?ひなを連れ去って、どうしようってんだ?」

「そんなの……りょーちゃんには関係ないっ!」

 遂に伊織は剣を抜いた。数メートル離れた俺に向けられた切先は微かに揺れているように見えた。

「あるんだよ、それが。ひなはもう俺の中では家族同然だ。というか、お前も大切な人を失う重みくらい分かってるだろ?」

「……さい」

 なんと呟いたのかは聞こえなかったが、次の瞬間、伊織は俺に肉薄してきた。距離を一気に縮め、日本刀が横薙ぎに振るわれる。

「っぶねぇ!」

 先端が服を掠め、若干の切れ込みが入るが、体に傷はついていない。

「りょーちゃんに……お姉ちゃんの何が分かるっての!?何も知らないくせに、知ったような口聞かないでよ!」

 俺を見据える目には最大限の怒りが込められているが、同時に潤んでいるのも確認できた。

「やれ、耳を貸してくれそうもないな。これは」

 一方で、命の危機に瀕している筈なのに、俺は俺であり得ないくらいに落ち着いていた。

 

 客室の廊下はおよそ楕円状に湾曲しており、それ故に身を隠すことも意外と簡単に出来る。

 雅は船尾側の階段へ向かう源蔵の姿を捉えると、サイレンサーの取り付けられた拳銃のトリガーを素早く引いた。音速を超えて放たれた凶弾は幸か不幸か、階段のあるドア上部に取り付けてある非常口の看板を破壊した。

 看板の割れる音を感知した源蔵は即座に敵がいることを認識して、左手の拳銃を雅が直前までいた場所に打ち込んだ。そこに雅がいれば確実に心臓を撃ち抜かれていただろうが、既に雅は物陰に隠れていた。

「六誠会の者だな?ここまで気配を消して来たことは褒めてやるが、肝心の銃が外れたのでは意味がないぞ」

 嘲笑混じりに源蔵は雅を牽制した。対する雅はサイレンサーを外し、窓側へと放り投げる。反射的に源蔵はそこへ弾丸を撃ち込むと、サイレンサーに命中するが、同時に自分が銃を向けられていることに気づいた。

「外れたのではなく、外したのですよ」

 次弾の装填よりも雅の一撃の方が早いと察した源蔵は、静かに銃を持つ手を下ろした。

「……見事な腕だ。降伏しよう」

 源蔵の諦め宣言に、雅は眉根を寄せる。

「貴方は、何故私がわざと一発目を外したのか。理解されていないようですね」

 そう言って雅も銃を下ろすと、源蔵は見るからに怪訝な顔をした。

「竜仙会の長、揺岐源蔵殿。お噂は兼ねてより聞いております。そこで、どうでしょう。一つ手合わせをしませんか?」

「手合わせ……?」

 源蔵のオウム返しに、雅はコクリと頷いた。

「最初からやり直しましょう。相手がいると分かっているという前提の下、銃撃戦をやり直すのです。何より、不意打ちは性に合いません」

「……なるほど。その提案を受け入れよう」

 強気に返す源蔵だが、仮に従わなかった場合容赦なく絶命させられていたことを理解していたため、実質受け入れないという選択肢はないも同然だった。

 そうして、互いの姿が物陰に隠れるくらいまで下がった後、雅は号砲を一発放った。刹那、銃を構えた源蔵が突進する。

(今一発撃ったということは、次弾の装填までに時間を要する。なら、その前に片付ければ良い)

 それが源蔵の考えだ。確かに、彼の運動神経は実年齢に見合わないほど高水準だ。雅のいる場所までなら二秒程度で辿り着くだろう。しかし、

(入射角41°、反発係数およそ0.68、誤差推定±4cm)

 雅は源蔵の相対よりも遥かに早く次弾を発砲し、その一撃は源蔵の左膝を砕いた。

「っーー!?」

 突然感じた脚の痛みを噛み締め、バランスを崩して床に倒れ込むのも束の間、

(入射角63°/45°、反発係数変動なし、誤差推定±1cm)

 一秒足らずで再度撃たれた弾丸は源蔵の得物を軽々と破砕した。その音を聞いた雅は、漸く源蔵の前に姿を現した。

「私の勝ち、ですね」

 不敵に笑む雅を見て、源蔵も苦笑を漏らした。

「完敗だよ。素晴らしい実力だな」

 適当に開けた客室の一つからタオルをいくつか持ってくると、雅はまず源蔵の両手を背中の後ろで縛り、その後膝の手当てをした。

「お褒めに預かり光栄です」

「とても唯のヤクザだとは思えないな……君は、傭兵か何か?」

 銃弾の上からそっと膝をタオルで巻きながら、雅は答えた。

「私はただの一ヤクザですよ。高校時代に競技射撃を嗜んでいたくらいです」

「それは、どこまで行ったんだ?」

 いつの間にか友達同然の話し方をする源蔵に若干の違和感を覚えながらも、雅は何の気なしに回答した。

「日本で優勝する程度です。後は、物理学に傾倒していたくらいです」

 雅にそのつもりはなくても、源蔵には煽りに聞こえたらしい。雅の才能の理由を知った源蔵は「ハッ」と一つ笑って見せた。

 

   3

 

「厄介だな、これは……」

 ひなを救うという目的の下、本来戦闘に持ち込む必要はないのだが、客室の廊下に行くとなると必然的に伊織はそれを妨げようとする。

 かと言って接近戦に持ち込もうとしても、素手と剣ではリーチの差で確実に劣る。そこで俺に有利な間合いに何度か近づこうと試みたが、その前に距離を取られるため、ずっと一進一退の攻防を繰り広げている。

「いい加減諦めたら?どうせひなちゃんは助からないんだから」

 不意に伊織が口を開いた。こちらを退かせる言葉としては下手すぎるから、おそらく体力回復のための時間稼ぎだろう。その証拠に、さっきから伊織は肩で息をしている。

「お前こそ、なんでひなに固執するんだ?姉貴の手術代目当てか?脳死なら助からないと思うぞ」

 敢えて琴線に触れる発言をすると予想通り、伊織は眉をぴくりと動かした。

「どうして……そこまで知ってるの?」

「さぁな。ひなを解放してくれんなら、教えてやらないこともない」

 俺の挑発的な言葉に伊織は一瞬歯噛みするが、何を思ったか、俺から少し距離を取ると刀を下ろした。

狗神の脳はね、脳死者の記憶をそのまま保ってくれるの。制限時間ももうないから、この機会を逃したら……前と同じお姉ちゃんは二度と帰ってこない」

 ただ脳を移植したところで、その思考や記憶は患者ではなくドナー元の人物のものになるだろう。そうすると、患者は元通りとは言い難い。

 しかし、今回の場合は少々話が違う。

「それは……生き返りたいってのは、お前の姉貴の願いなのか?」

「そんなの、そうに決まってるじゃん!お姉ちゃんももっとずっと生きたかったはずだよ!」

「ならーーどうして自殺の道を選んだ?」

「っ……!」

 漸く自分の発言の矛盾に気づいた伊織の目線がたじろいだ。自殺は生きたいと渇望するやつの取る行動としては大間違いである。

「……分かるわけないよね」

「ん?」

 憤怒と悲哀に満ちた顔をした伊織がぽつぽつと本音を吐露する。

「助かるかもしれない、一縷の望みがあるって分かったから何年も頑張った。そんな私の苦労なんて、分かるはずもないよ。やっと手に入るかもしれない幸せが、すぐ目の前にあるんだよ?だったら、みすみす逃すわけにはいかない」

「分かりたくもないな。そんな独りよがりで身勝手な我が儘なんてーー」

 伊織を否定した瞬間、腹部を狙った鋭い突きが放たれた。すんだのところで避けたつもりだったが脇腹を掠めたようで、服が切れ、血が飛び出した。幸い傷も浅いのですぐに止まったが。

「私が、我が儘?自分勝手?……そんなわけない!」

「なら教えてやるよ!」

 俺が叫ぶと、怯んだように伊織の動きが一瞬ピタリと止まったが、猛攻は止まらない。それでも俺は語りを続けた。

「姉貴が死んだ理由はなんだった!?人生に絶望したからだろ!この先も決して消えることのないトラウマを植え付けられたからだろ!そんな奴にお前は『私の幸せのために生きろ』って抜かすのか!?一度でも!その苦しみを考えたことはあるか!?」

 横薙ぎに振られた刀を身を低くしてかわす。スタミナの問題もあるだろうが、その一撃は不思議とさっきまでより遥かに遅く思えた。

「じゃあ……どうすればいいの?お姉ちゃんを諦めろって言うの……!?」

「そうだ。少なくとも他人の幸せを奪う上に立つ幸福なんて脆いもんだ」

 いつの間にか涙声になっていた伊織に俺は非情な選択肢を突きつけた。

「大切なものを失ったまま生きるのは辛いさ。でもな、一度失ったやつは残されたものをより大事にしないといけないんだ。失ったものの価値を知っているからこそ、それが出来るんだよ」

 俺の脳裏に叶とアキラの姿が浮かんだ。楽しそうに二人で走る光景から、仏壇に寂しく置かれた遺影まで。

 とめどなく涙を流す伊織は剣を振るうことも止め、その場に立ち尽くした。

「怖いよ……お姉ちゃんとお別れなんて……」

 握力の抜けた右手から日本刀を落とし、力なく座り込もうとする伊織の肩を支えて、俺は真っ直ぐ目を見た。

「なら、俺もその苦しみを背負おう。残された幸せの護り方も教えてやる」

 俯いていた顔を上げて、伊織は俺に訊いた。

「……いいの?……私は、ひなちゃんを殺そうとしたんだよ?」

 確かにそれは受け入れ難い。でも、不思議ともう苛立ちも恨みも感じていない。なぜなら、

「過ぎ去ったことよりも、大事なのはこれからどうするかだ。違うか?」

 俺の回答に伊織は一瞬目を見開くが、すぐに微笑んで見せた。

「ふふっ……りょーちゃん、そんな顔出来たんだね」

「そんな顔?どんな顔だよ」

 問い質そうとしたが、伊織は首を横に振る。

「なんでもない。それよりも、ひなちゃんを迎えに行ってあげたら?」

 伊織の一言で俺は漸く我に帰った。

「……そうだった、また後でな」

 所々についた傷の痛みを我慢しながら、俺は廊下へと歩いて行った。

 

   4

 

 発信機を補足する術はなかったので当てもなく廊下を歩いていると、不意に客室のドアの一つが鈍い金属音を立てて開いた。中から出てきたのは、眠そうに目を擦る覚束ない足取りの、犬耳と尻尾を生やした状態のひなだった。

 やがて意識がはっきりしてきたのか、ここがどこかを探るように視線を左右させている。半ばパニックになりながらも、視界の端に俺の姿を捉えると犬耳をピンと立てて一目散に駆け寄ってきた。

「ご主人様っ!」

 体勢を低くして俺はひなを抱き留める。嬉しそうに尻尾をブンブンと振るひなだったが、不意にその動きが止まったかと思うと、ハグを拒絶するように離れようとした。

「どうした?」

 ひなは不安そうな顔で俺の体のあちこちに目をやる。

「ご主人様……たくさんおけがしてます」

 自分の今の状態をすっかり忘れていた。そのせいで心配をかけてしまったらしい。

「こんなの、なんてことないさ。それより、皆んなの所へ行こう。きっと心配してるから」

 頭を撫でながら言うと、「はいっ」と元気に返事をしてひなは笑顔になった。

 

 雅、源蔵の体を支える伊織、そしてひなと共に船尾の方へ降りていくと、争っていた二つの勢力は戦闘を止めた。雅と伊織が説明をしながら歩く間、ひなはずっと俺の胸に顔を擦り寄せていた。

 やがて最初に車を降りた場所まで辿り着くと、黒い服を着た人の数が二倍程度にまで増えていた。その渦中では伊織に支えられた源蔵と、右後ろに有馬を従えて、抱き着くひなの頭を優しく撫でる日和が、穏やかな雰囲気を醸し出しながら会話をしていた。

「改めて、お疲れ様です。亮馬さん」

 人集りから少し離れて様子を見守っていた俺に、隣にいた雅が労いの言葉をかけた。

「お疲れ。協力してくれてありがとうな」

「どちらかというと、それはこちらのセリフですね。ひな様を無事に帰してくれてありがとうございました」

「……はは、そうだったな。どうやら、俺の中じゃもうひなは家族の一員になっているらしい」

 尤も、その関係も今日をもって終わりだと考えると、この上ない寂しさを感じる。

「……これから、どうするんですか?」

「どうする、ね……。また孤独な学生に戻るだけさ。本当なら、こうして関わることさえおかしいことだったからな」

「そうですか。こちらとしては、亮馬さんを我々の世界に引き込むことも考えて」

「それはよしてくれ」

 早々に断っておいた。流石に両親にそんなことで不安をかけるわけにはいかない。

「ですよね。そう言うと思いました」

「おい、なら訊くなよな」

 とんでもないブラックジョークに、俺はつい苦笑を漏らした。

 少しして、話を終えたのであろう源蔵と日和が双方の構成員の方へ顔を向けた。

「ここに我々六誠会と竜仙会の無期限の同盟の締結を宣言します」

 つまり、事実上の統合だ。

 僅かにどよめく声も聞こえたが、それ以上の歓声がその場を覆い尽くした。

「良かった、のか?」

「さあ。それはこれから分かることでしょう」

 肩をすくめて言う雅の顔は、心底興味がないとでも言いたげな感じだった。

 歓喜の渦の中、ひなに手を引かれた日和が有馬を従えてこちらへ歩み寄って来た。

「この度は本当にありがとうございました」

 日和と有馬は俺に向かって丁寧に頭を下げた。頭に疑問符を浮かべながら、ひなもなんとなくそれに倣う。

「こちらこそ。ひなとの日々は楽しかった」

 ぶっきらぼうに返すと、「そのことですが」と日和が続けた。

「私も親としてこの子を連れ帰りたいのですが、最終判断はこの子自身に任せたいと思うのです」

「……と、いうと?」

 言葉の意味が分からないわけではないのだが、その一言ではとても飲み込めなかった。

狗神の世界では『主従の証』という伝統があるそうです。狗神本人が主人と認めた相手と一生を共にする、そういうしきたりがあるのですが、もしこの子が貴方のことを主として見ているのなら、貴方に任せた方が良いのではないかと考えました」

「……ひなの選択次第で、ひなの運命が変わるってことか」

 日和と俺は、相変わらず無邪気な顔をしているひなに目を向けた。

「ひな、よくお聴きなさい。これから貴女は大きな決断をしなければなりません。今まで通り私たちと共に暮らすか、宍戸さんを主人と認め苦楽を共にするか。貴女はどちらを取りますか?」

 真剣な眼差しの日和にそう訊かれたひなは俺の顔を見つめたかと思えば、また日和の方を向き、再度俺の方を向いて……と、なんども視線を行き来させた。

 やがて決心がついたのか、俺の方へと歩み寄り、俺の左手を両手で握ると、

「ご主人様と、ずっと一緒にいたいです」

 日和に微笑みかけながら言った。

 日和もまた、どこか寂しそうな笑みを浮かべて、ひなの頭を名残惜しそうに撫でた。

「そうですか。なら、くれぐれもご迷惑をかけないよう、ご主人様を精一杯支えなさい。そして、くれぐれも元気でいてください」

 ひなは笑顔で「はいっ!」と頷いた。

 横にいる雅がゆっくりと拍手をする。つられて他の構成員も拍手をし、真夜中の港に大歓声が轟いた。

 気恥ずかしさを感じる中、俺はしゃがんで、ひなと同じ目線になる。

「これからまたおせわになります。竜胆ひなです。よろしくお願いしますっ」

 改まって挨拶をするひなは、心底嬉しそうな笑顔を作った。

「こちらこそ。宍戸亮馬だ。これからまたよろしくな」

 祝福の空気に包まれる中、俺たちはこれまでで一番強く抱きしめ合い、互いの愛を確かめ合った。

 

◯時が宥めていく

メメントモリ、だね』

 しんしんと雪が降る中、雅はある人物と通話をしていた。

「死があることを忘れないで、でしたっけ?」

『そうそう。結局のところ、二人とも大切な存在と死別したけど、それによって強くなれて、絆も深まった。悲劇的喜劇を体現してて、面白いと思わない?』

「どうだか。けど、言いたいことはよく分かりますよ」

 火垂駅周辺はクリスマス仕様に彩られており、雅はまだ雪掻きのされていない場所で雪の感触を楽しんでいた。

『君はこれからどうするの?これから先も六誠会……今は竜胆会か。に、居続けるつもり?』

「籍は置いておく予定ですが、各地を回ろうかなと考えてます。傭兵として」

『傭兵かぁ……。困ったら依頼してみようかな』

「そんな状況にならないことを願いますよ」

 呆れたように返すと、電話口の相手は可笑しそうにくつくつと笑った。

「そっちはどうですか?ちゃんとご飯食べてますか?」

『お母さんみたいな言い草だね。嫌いじゃないけど。今のところは父さんに頼ることなく出来てるから、後は炎上にさえ巻き込まれなければ全て上手くいくはず。愉しい毎日を送ってるよ』

「愉しい、ですか。良い響きですね」

『いつだって、迷ったら愉しい方へ。だよ』

 あまりに楽観的な考え方に見えるが、雅はこれに何度も救われた。

『それとも、そのひなちゃんや亮馬たちのことをこれからも護り続ける?僕は止めないよ』

 目を閉じて雅は白い息を吐いた。その口の端は不思議と吊り上がっている。

「愉悦の名の下に。貴方が教えてくれたことですよ」

 

   1

 

 目を覚ますと、俺はまたあの河川敷にいた。

 帰り道を探そうと辺りを見渡すと、伊織とよく似た容姿の女性を見つけた。

「こんにちは」

 初めて会った時と変わらない調子で、彼女は挨拶をした。

「……なぁ、今度こそ俺、死ぬのか?」

「あははっ!まあそうなっちゃいますよね!」

 彼女はお腹を抱えて大きく笑った。

「違いますよぉ。ただ私がこれから『あっち』に行くから、偶然寝てたあなたにご挨拶でもしようかなと思った次第です」

 あっち、と言いながら、視線を対岸に向ける。

「そうか……まぁ、そうだよな」

「あの我が儘っ子ちゃんがやっと色々済ませてくれたのでね。ようやっと、肩の荷が下りるってとこですよぉ」

「それはよかった……のか?」

 反射で返したが、正しいのかどうかが分からなかったので曖昧な返事になってしまった。そのせいでまた笑われてしまった。

「ところで、アンタ……いや、眞子さん……いや、なんて呼んだらいいんだ?」

 彼女ーー眞子の名前を呼ぶと案の定、彼女は目を見開いた。

「……これっきりの仲の人の呼び方なんて、考えなくて良いんですよ?」

「それは出来ない。これから関わり合いになりそうだからな」

「ふ〜ん?あの子も隅に置けないなぁ。行く末が気になっちゃうから、あっち行くの止めようかなぁ?」

「そこは成仏してくれ」

「あっはは!ひどぉい!」

 可笑しくて笑い出す眞子。つられて俺も吹き出した。

「……その感じじゃ、つき物は取れたみたいですね」

「おかげさまで。アンタの分までしっかり生きるよーーいってぇ!?」

 不意にデコピンを喰らった。見れば眞子の頬は膨れている。

「死者の意思なんて背負わなくていいんです。自分の思うように生きてくださいっ」

 何気ない一言だが、不思議と身に沁みた。

「あ、そろそろ行かないと。それじゃ、亮馬さん。これで本当にお別れです。短い時間ですけど、楽しかったですよ。それからーー」

 一歩近づいて、眞子は俺の耳元で囁いた。

「妹のこと、よろしくお願いしますね」

 それに対する俺の答えはハナから決まっている。

「任せてくれ。必ず守ってみせる」

 安心したように眞子は笑うと、手を振りながら俺に背を向けた。その先には、この時代には似つかわしくない木造の小舟が川の上にぽつりと浮かんでいた。

 その小さくも大きな背を目に焼き付けて、俺は眞子と反対方向に歩いて行った。

 

 次に目に映った光景は見慣れた天井だった。白色の円形蛍光灯と、そこから垂れ下がる紐に何故か不思議と懐かしさを感じた。

 今し方横になっていたベッドに腰掛けて辺りを見渡すと、物が増えて少し手狭になった部屋が広がっている。

「ただいま帰りましたっ!」

 不意に玄関から元気な声が聞こえた。

 パタパタと忙しい足音の後に現れたのは、白と黒が入り混じった長い髪に、犬耳と尻尾を生やした状態のひなだ。

 ひなは俺の姿を見ると一目散に飛びついてきた。

「ご主人様っ!」

「うおっ!?」

 ギリギリで受け止めるが、やはり何度やっても慣れない。そんな俺の苦労なんかお構いなしに、満面の笑顔を浮かべるひなは腹俺のに絡みつき、胸に顔を擦り付けている。

「ただいまぁ」

 疲れたように間延びした声を響かせて、遅れてもう一人登場した。

「おかえり、伊織。四十九日どうだった?」

 青みがかった長髪の若干の乱れが、伊織が如何に疲れているかを物語っている。

「どうもこうもないよ!?面白いことなんて!」

 半ば喧嘩腰で伊織は不満を惜しげなく口にした。

「その点ひなちゃんはみーんなにちやほやされて疲れてるだろうに、元気だねぇ。私もりょーちゃんにハグされたい〜」

 ストレスが溜まっているのがよく分かる。こういう時、放っておくと後々面倒になることを俺はよく理解している。

「仕方ねぇな……来いよ」

「わ〜い」

 右の腕を開くと、伊織は四つん這いでのっそりと移動して、俺の首に両腕を回した。自然と間に挟まったひなは一層幸せそうに頬を綻ばせた。

 俺もまたこの幸せに浸っていたが、ふと冷蔵庫の中にあるものを思い出した。

「ああ、そういえばさっき、クリスマスケーキ買ってきたんだよ。食うか?」

「食べたいですっ!」

 ひなが即答した。

「私も〜。りょーちゃん、気が利くねぇ」

 遅れて伊織も手を挙げた。

「よし、じゃあ手を洗って来い。風邪でも引いたら世話ないからな」

「「は〜い」」

 数ヶ月前まで命を狙い狙われる関係だったはずの二人が、今は仲良く笑顔を向け合って洗面所に向かっている。

 そんな何気ない光景を見て、俺は自然と頬が緩んだ。

 

 この幸せがいつまで続くかは分からない。もしかしたら、また突然失ってしまうかもしれない。だからこそ、俺は今を大事にしたいと思う。